小さく振動する、動脈の上の水滴。
暗闇に差し込む、か細い光に透ける和紙。
控えめに開けられた襖の奥から、糸を手繰り寄せながらこちらに接近してくる手。
静謐な暗闇が充満する二条城御清所に足を踏み入れると、それらがまるで何十年も前からそこにあったかのようなさりげなさで配置されている。作品は今述べた以上の説明は何も要しない。動脈の上に置かれた水滴のわずかな震えに、その繊細さに驚くことのできる感性さえ備えていれば十分だ。
それらの些細な、しかしそれゆえに尊い発見の一つ一つを味わい、次の展示室に向かうと、一転して明るい空間に大きなスクリーンがそびえている。画面はひたすらに白く、どことなく不安定だ。会話が聞こえている。しばらく耳を傾けていると、その不明瞭な白さの理由は、カメラの前に白紙を貼り付けているからだと分かる。どうやら作家は自身のルーツでもあるチュニジアで、この何も映らないカメラを回しているらしい。好奇心からか、通行人が何度も声を掛けてくる。自身がフランスでアーティストとして活動していることを伝えると、彼らはときに賞賛し、ときに罵倒する。挙句の果てに、作家は訝しがられ、警察署に連行される。テロ対策のために、警察署や兵舎を撮影してはならないのだと警官は言う。咎めるようなものは何も映っていないと確認した後に、警官は仕方なく作家を帰す。スクリーンは最後まで白いままだ。
「政治的」な作品だ。最後まで見終えた観客は誰もがそう感じるだろう。白紙を張り付けたカメラを回すというただそれだけの行為が浮かび上がらせるのは、チュニジアの置かれた状況や作家自身の抱えるナショナリティの複雑さである。何も映し出されないスクリーンは、「映してはいけない」と禁じる体制そのものを映し出す。そしてこの「何を映すか」という問題において、全く別の方向性を持つかにみえる展示の前半と後半が、相互に深く絡まりあっているように感じられるのである。
展示の前半は日頃見落とされている些細なものに、つまり「瞳に映らないもの」に文字通り光が当てられている。一方、後半は「カメラに映らないもの」が、その不在によって背後にある力を暴き出している。とするならば、「何を(瞳に、あるいはカメラに)映すか」という問いは、「何を映すことが許されているのか」という「政治的」な問題につながっているのではないだろうか。何も映してはいないかのような真っ白いスクリーンの放つ光は、暗闇に満ちた前半の展示が秘めるものを照らしだす。日光に透けるクスノキの葉脈の美しさに感嘆することは、とるにたりない行為ではない。それは極めて「政治的」な行為になりうるのだ。