グイド・ヴァン・デル・ウェルヴェ(以下、グイド)は、自らその作品に作品番号をつける。今回の個展では、現在のところ17番まである彼の作品のうち、7点が展示された。1点の実写スライド写真シリーズと1点の実写スチル写真を除いて、それ以外は映像(実写動画)作品である。これらの作品には全て、グイド自身が登場する。その中で彼は、様々な行為を行う。
走る(ウルトラマラソン、トライアスロンなど)、歩く、立ち続ける、落下する、吊るされる、高山に登る、燃える、爆発する。これらの行為はしばしば長時間、長距離に渡る。また疲労、危険を伴う。
そして、グイドはピアノを弾く。特にショパン。そして自作の曲。ピアノ演奏にはしばしば管弦楽と合唱の伴奏が伴う。
また、彼は様々な場所でこれらの行為を行う。彼自身が暮らした場所、愛着する作曲家ゆかりの場所。極地や氷海など。
行為とその持続。音楽とその演奏。そして場所。
これらがグイドの作品の意味を構成する。
最も長く(54分)、最も総合的かつ綿密に構成された作品は第14番(2012)だろう。
ショパンとアレキサンダー大王とグイド。それぞれの生誕と遍歴。そして死(または疲労と危険)。
主調は、ショパン追悼トライアスロン。
ショパンの心臓が埋葬されるポーランドの聖堂で管弦楽を伴いピアノを弾くグイド。自作のレクイエム。彼は黒いウェットスーツを着ている。川へ向かい泳ぎ始める。自転車に乗り換える。ショパンの生誕地で土を缶に詰める。ドイツを横断し自転車は走る。美しい風景。フランスに入る。次はランだ。走る。疲れてくる。疲れ切って、ショパンの心臓以外の部分が眠るパリの聖堂に着く。生誕地の土をその墓に捧げる。
このトライアスロンの合間に、マケドニア、エジプト、インドのアレクサンダー大王ゆかりの地の風景と大王がついに遠征から故郷に戻らず、バビロンで死んだという伝説だけを残し、墓も見つかっていないことが語られる。
そして、もうひとつの幕間はグイド自身の生れた病院、通った学校、育った家をめぐる旅。管弦楽がレクイエムを奏でる中、グイドが登場したかと思うと、爆発が起こり、背中で炎が燃え、クレーンで吊り上げられる。
ここに登場する行為とその効果は、同時に展示されているそれまでの作品にも、類似の断片が用いられる。
第4番では、グイドが筏の上でピアノを引き、また、フレーム外の空中から運河へ落下する。
第6番では、アパートの部屋でショパンのピアノ協奏曲を管弦楽とともに演奏する。
第13番(3つの作品からなる)では、ニューヨークのギャラリー(PS1/MoMA)から50kmほど離れたラフマニノフの墓まで走り(13a)、また12時間、約100km、フィンランドの自宅家屋のまわりを走り続ける(13c)。
危険を伴う、という意味では以下の作品も、強い関連性を持つ。
第8番では、向こうから氷海を進んでくる砕氷船の直前を、グイドが悠然と歩いている。
第9番では、白夜の北極点に24時間立ち続ける。
そして最新作、第17番。表題は「暇つぶし 1回目の試み:世界で最も深い海から最も高い山まで」
自宅の浴室で、深さ40cmの浴槽に入る動作を、マリアナ海溝の海底に到達するまで。
自宅の寝室で、高さ60cmのベッドに上がる動作を、エヴェレストの山頂に到達するまで。
同じ動作を、延々と繰り返す。
この作品のタイトルの一部「暇つぶし(killing time)」は、今回の個展のタイトルでもある。
そして第17番が「暇つぶし 1回目の試み」であるならば、それまでの作品とその行為は決して「暇つぶし」ではなかったわけだ。
たぶんグイドは、第17番より前の作品では、その行為と記録、作品の構成に、決して暇つぶし(=無駄な行為)ではない、それ以上の「意味」を付与しえていると考えていた。
ときに豊かな緑に包まれ、ときに寒々と荒涼としたヨーロッパの風景。歴史を重ね、美しく整えられた街並み。氷海、極地、高山の景観。それらは美しく、崇高で、映像として見るに値するものと考えていた。
モーツアルト、ショパン、ラフマニノフの音楽。そしてその亡命者としての運命に共感していた。グイド自身も彼らのように美しい音楽を作り奏でたかった。
マラソン、トライアスロン、ウルトラマラソン、そして登山。長時間をかけ、身体を酷使して克服する距離や高度。それは疲労を贖ってあまりある快楽と達成感を得られるものだった。
しかし今回、それらの愛着する行為の記録も含めて、個展のタイトルを「killing time」としたのだ。
そして最新作は、純然たる単純行為の無意味な繰り返しに収斂したかに見える。
これまでの作品も含めて、結局は「暇つぶし」に過ぎない、というのか?
グイドはもう、音楽に、風景の中に戻ることはないのだろうか?
最後に私の感想と希望を。
私は、第17番に続く「暇つぶし」をしばらく続けることを止めようとは思わない。しかし私は、美しく崇高な風景の中で、愛する音楽とともに、意味があるかに見える特別な行為を行い、それ記録したそれまでの作品に、強い愛着を覚える。グイドよ。風景の中に戻ってくる日を待っている。
ps.
本文では触れなかったが、当然のことながら、グイドの作品を特別なものにしている重要な要因は、作品中に必ず彼自身が登場することに他ならない。絵画にも自画像はある。しかし絵画では画家は確かにカンバスのこちらにいて、絵筆を取っている。しかし、作者が登場する映像作品では(近接自画撮りを除き)、カメラのファインダーを作者が覗いてはいないことになる。カメラの位置にいるのは、作者ではなく撮影スタッフであり、それは同時に私たち鑑賞者自身なのだ。グイドが北極点に立ち続ける24時間、カメラの位置にいる私たちは、北極点からはずれた位置で、太陽と反対方向にグイドの周りを回っている。10分を経過してもカメラとの距離がほとんど変わらないように見える砕氷船とグイドは、私たちから何kmも離れたところにいる。事故が起こっても助けは間に合わないかもしれない。作者自身が登場する映像作品が持つ、そうした立場の反転や不安感もまた、グイドの作品に独特の緊張感を与えている。
ps2.
第8番について。
本文で私は、10分の経過時間の間にもカメラに近づくように思われない砕氷船とグイドの映像について、遠くから望遠レンズを用いて撮影したと推測したが、以下のサイトに制作過程についてのインタビュー記事がある。
http://www.abc.net.au/arts/blog/arts-desk/Guido-van-der-Werve-on-thin-ice-120814/default.htm
撮影は、スノーモビルに積んだカメラと標準レンズを用いたという。理由は、望遠レンズでは「ぶれ」が甚だしいため、とのこと。ちなみに砕氷船とその前を歩くグイドの距離は約10メートルで、船に近づきすぎた場合等には船長から(おそらく無線で)合図が送られたという。
ただ、一方で彼は「多くの人が高倍率の望遠レンズを用いていると思ったようだ」とも述べている。
ps3.
第4番と第17番を除き、それ以外の作品はいずれも、ある観点から、コマーシャルフィルムの新しい形式を提示しているようにも見える。
第6番はスタインウェイ者のピアノバンク(演奏家に理想のピアノを貸し出す制度)。コピーを付けるとすれば「あなたも、あなたのお部屋でコンサートを開くことができるかも知れません。」
第8番は氷海を歩く旅。第9番は北極点への旅。冒険的なツーリズムへの誘い。「砕氷船を従えて氷海を歩くという、荘厳な体験を。」「北極の白夜を体験するなら、北極点での24時間を。」
第13番のa。ラフマニノフ作品のCD。「その墓地まで走って花を届けたくなるほどの感動。」
第13番のb。アコンカグア峰への登山旅行。「エベレストより安全で、同じほどの感動。」
第13番のc。フィンランドの田園の住宅。「朝から晩まで、お家の周りを走っていたくなるほど、素敵。」
第14番。トライアスロン用品(スイムスーツ、自転車とヘルメット、ランニングシューズなど)。「トライアスロンは、ただのスポーツではない。それは究極の旅。そのための最良のツール。」