Exhibition Review

2019.01.08

生誕110年 東山魁夷展

東山魁夷

京都国立近代美術館

2018年8月29日(水) - 2018年10月8日(月)

レビュアー:奥山佳子


 
「東山魁夷は、唐招提寺のふすま絵を描いている時、きっと楽しかっただろう」
 
 
初めて間近で見た「道」は良かった。
「冬華」は凍えた。
晩年の作「緑響く」は、白い馬が印象的だった。
その中で、今回1番心が沸き立ったのは、唐招提寺障壁画を再現展示されたコーナーの、「濤声」だった。

そのふすま絵のコーナーに足を踏み入れた時、空気が変わった。
ドドーンと大きな波の音と震動が、真正面から体の奥にまで響いてきた。
波しぶきが飛んでくるようだ。
空間が丸っきり海。海よりも海だった。
この障壁画に至るまでに展示されていた絵が、内省的で静かな印象の絵が多く続いていたこともあって、この画家は、こんなにも力強く、真っ直ぐな迫力のある絵が描ける人だったのかと驚いた。
荒々しいのに品がある。カラリとした明るさがあった。
葛藤のない明るさではない。引っかかり、逡巡は確かにある。そこから何らかの気持ちの持っていきようで、突き抜けた末の、明るさだと感じた。

このふすま絵の注文時に、画家にどれだけの指示、制限があったのだろう?
勝手に想像するしかないが、テーマを含めて何から何まで「東山魁夷先生の好きなように描いてください」であったとは考えにくい。
由緒あるお寺のふすま絵である。
いくら東山魁夷であっても、何から何まで自分の好きなようには描けなかったのでは?と考えられる。
制限の大小は分からないが、制限があったからこそ生まれた、思いもよらない力の結晶のような絵であると感じた。

私の仕事はライターだ。
私の仕事のほとんどは、テーマ、字数、文章のタッチなど、何から何まで細かく決められていることがほとんどで、「私」を出すことは許されない。
与えられたテーマが自分にとってほとんど何も知らない分野のことで、取材も上手くいかず、締切りは何時間後、さあどうしようという時がある。
「すいません、書けませんでした」と言って終了しようと、何度思ったことか。結果、命までは取られないだろう、と。
でもその言葉を口にした瞬間、売れないライターながら、やっとたどりついて、いただくことができた「物を書く仕事」は終わってしまう。それは命を取られることより辛いことじゃないか?という話はまた別の話になってしまうので、置いておく。
脂汗をたらして悶えても、体中から無い知恵を絞り出そうとしても、なんにも書けない。
そうなったら最後、もう開き直るしかない。書いても書かなくてもこの仕事が終わるなら、せめて何か書いて終わろうと、まず、自分の書いたものに対して「何を言われるだろう」とビクビク恐れる気持ちをばっさりと捨てる。そして腹にグッと力を入れて覚悟を決めて「えーい、うるさい。文句があるか!」と清水の舞台から飛び降りるような気持ちで書き上げる。とにかく書かなきゃいけない。書くしかないのだ。

ところがである。あくまで私の経験だが、そんな風にして書いたものに対する評判が、何故か良いことが多いのだ。
不思議なことだが、私が思うに、好きなことを好きなように書いてばかりいたら、自分では、その時々工夫して変えているつもりでも、やっぱりどうしても同じようなのだろう。
自ら進んでは絶対に書かない分野のことを、文章の口調などの書き方までも、依頼先の言う通りに書こうとすると、試行錯誤、工夫をし、あらゆる意味で今まで書いたことのないものを書かなければいけなくなる。その結果、自分でも気づいていなかった力が引き出されて、思いもよらない作品が生まれることがあるのだ。
そこへプラスして、追い詰められて開き直った果ての肝の据わった迫力、エネルギーが加わる。人間ギリギリまで追い詰められた時には、とんでもない力が出るものだ。

仕事として物を書くということは、結局、いかに腹をくくって、どれだけ強く覚悟を決められるかだなと、年を重ねるほどに感じる。

売れないライターである私の体験と感じたことを、そのまま、国民的大画家である東山魁夷のふすま絵に当てはめるのは、おかしい、間違っているということは、これでも分かっている。

日本中、いや、世界中にどれだけ多くの東山魁夷ファンや研究者がおられることか。
私は絵に関して、ド素人だ。
まさに私は今「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで書いている。このような内容のレビュー、腹をくくらなきゃ書けない。
間違っていようが、見当違いだろうが、私がこう感じたのだ、と。

「道」や「冬華」は素晴らしい。
それと共に、東山魁夷に、唐招提寺のふすま絵を描いてくれという依頼があったということ。そして、このような傑作「濤声」が生まれて後世に残っていくことは、なんと幸せなことか。本当に良かったと素直に思う。

東山魁夷の画家としての引き出しの多さ、「職業画家」という面においての技術にも、驚嘆するだけだ。
さらに何といってもその心持ちである。
私などがえらそうに「覚悟を決めてかく」などと言っているようなことは、この大画家にとって、絵を描く上で当たり前のこと。取り立てて言葉にして言うようなことではないのだ。
言うまでもない話だが、そういう次元ではない。
気概が違うとでもいうのか。
そのプロ根性を尊敬する。

しかしまあ、このふすま絵の迫力は何と言えばいいのだろう。圧倒されるとしか言いようがない。
ジンジンと伝わってくるのは、この絵を描いた人は、その時きっと楽しかったのだろうということだ。製作過程のどの段階からかは分からないけれど、突き抜け、のってきて、描くのが楽しかっただろうな、と。
だって、ふすま絵そのものはもちろん、周りの空間までもが、生き生きとして活気にあふれているもの。

描いた人が楽しんで描いた絵は、やっぱり、いい。

画家でもライターでも、自分のかきたいものをかきたいようにかいて、お金を貰える人は少ない。依頼先の言う通り、がんじがらめの制限の中、悩んで苦しみながらかいている人が、私も含めてほとんどだと思う。
でも腐ってはいけない。制限があるからこそ生まれるものがある。これから成長するための大きな経験や、チャンスにつながるかもしれないよと、自分も含めた皆に言いたい。

これからも腹をくくって覚悟を決め、そして何より楽しく、かいていこうじゃないか。かくしかない。
名もない画家もライターも、そしてきっと、たぶん東山魁夷だって、みんな最初は「絵を描くこと、文章を書くことは楽しいな」から始まったのだから。

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