Exhibition Review

2018.10.19

FOCUS#1『キウチ芸術センター展』

木内貴志

京都芸術センター

2018年7月27日(金) - 2018年9月9日(日)

レビュアー:堤拓也 (31) キュレーター


 

京都市より指定管理者として運営を委託されている公益財団法人京都市芸術文化協会は、着実に制作を続ける中堅アーティストに焦点を当てる「FOCUS」という枠組みの第一弾として、木内貴志による展覧会『キウチ芸術センター展』を開催した。公開されている作家自身のステートメントを読むと、別の公募で落選したプランが再評価され、この度選ばれたということがわかる。つまり、長く京都で活動を続けてきた作家の企画が、公的なインスティチューションに拾われたというわけだ。木内による京都芸術センターの呼称から着想された「センター/中心」というテーマは、まさに意図通り、本営である「京都市芸術センター」のあり方そのものを露にした。それでは順を追ってみていこう。

 本展には南北それぞれのギャラリーに合わせて16点の新作が展示されていた。ポストコロニアル研究における主題としての中心/周縁といったパースペクティブは提示されておらず、あくまでも「センター」と「中心」が文字通りに扱われている。例えば、《R無指定(アートのセンター)》は、「ART」の真ん中に位置する「R」にモザイクがかかり、「センター」と、「R指定」という年齢による限定性を見事に交差させた作品である。あるいは、《砂の芸術センター》では、敷地内で採れた砂に彩色をした上で、本センターのロゴが床面に形成されている。少しでも京都の風が吹けば崩れてしまいそうなくらいに。ここで特筆すべきことは、木内は駄洒落を用いて現代美術の制度を前景化し、皮肉的にアートワールドの価値基準を相対化させたということでは決してない。むしろ、観客に京都芸術センターの「中」と「心」についての考察を驚くほど直接的に促したということである。どういうことか。
 「センター/中心」というメインテーマ及び、廊下に位置している《京都芸術センターグラウンド中心部遥拝所》が駄目押しのように指し示すのは、実は、日頃から立ち入り禁止となっており、稀にテニスの会場にもなっている「グラウンド」である。観客が決して入れない聖域、逆に慣れてしまうと全く気にならないヴォイドのことであり、まさに「センター」の「中心」に位置している。我々は、木製の鳥居とガラス越しに公共の施設とは何か、その中心で球技ができる集団とその土を踏むことも許されない階級との断絶について思いを馳せることになる。絵画ピクセルとなってぼやけた「中心」という表意文字は、南北を分断しているその象徴的かつ求心的な舞台が、実質のところ京都芸術センターに所属していないということ、つまり京都芸術センターのハード面での不明瞭性を意識させるのである。それは今まで、意外と作品によって指摘されたことがなかった。木内は「画廊以上美術館未満」を掲げ、受験失敗を現代アートと敢えて混同し体内に取り込み、「現代アートという言い方が嫌いだ!」と叫びながら「京都芸術センター」そのものを冷笑している。
 一方、「心」という漢字のモザイク化は、本インスティチューションにおけるキュレーターの不在と、規則上3年単位で入れ替わってしまうコーディネーターの諸行無常性の比喩である。展覧会や茶会、伝統芸能、音楽、演劇、ダンスなどといった多岐に渡る活動内容や、若手を発掘し紹介する使命、国際交流という理念は、結局のところ上位機関の政治的干渉や願望をもろに受託しているという側面によって曇ってきている。ようするに、もうこれ以上「心」ここにあらず、質が絞り出せないというソフト面での限界を表面化させているのである。それはひとえに残念というほか言いようがないが。
 以上を踏まえると、作家のステートメント内にある「中心」の反復がやがて「心中」に置き換わるといった小学生レベルの読み替えも、あながち間違ってはいない。例えば京都芸術センターから220m先にある株式会社グランマーブルのギャラリーPARCによる展覧会と比べてみた場合でも、展覧会としての質の優劣が目に付く。それは株式という資本主義制度の不戦勝であり、公共による文化提供の不戦敗を意味する。すなわち木内は本展を通じて、パフォーマティブかつコンスタティブに指定管理者制度という自律性が保てない準公的機関のずっと曖昧だった「中心」の不在を露呈させ、この平成最後の夏に「京都芸術センター」とともに「心中」したのである。

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