「イメージの背中、告白の背理」
告白する、隠されているものを露出させる、というのは決して告白される内容がそのまま陰から日向へと移動するような一方通行の単純な営みではない。告白ということをその極限において考えるなら、告白されるのは隠されているべきものであり、露出するということは必ずやその告白されるべきものを毀損せずにはいないだろうからだ。ひとは言ってよいことしか言えない。
この「CONFESSIONS」展はふたつの作品によって構成されている。ふたつともが、その告白の背理を背中あわせになったふたつのイメージによって表現する。ここではその一方、『最後の詩』について書く。
東京を歩きながら撮影した映像が、音のリズムにあわせて矢継ぎ早に切断される。音は、字幕に現れる「告白」の言葉を話す声であるようだ。実のところその告白は世界への呪詛の言葉であり、それを促す小泉の声だけが無傷のままサウンドトラックに刻まれている。告白者の声は奪われ、東京で採取された声(を加工すること)によって再構成されている。映像が言葉の音節や単語によって切断されているのは、同時録音によって採取された音声をつなぎ合わせることで告白者の言葉が再構成されているからだ。つまり、声の(偽りの)連続性のために、イメージは暴力的に八つ裂きにされる。とうぜん、告白者が沈黙すると、無言の東京のイメージが、次に彼が言葉を発するまで途切れることなく持続する。
このイメージの裏側には、もうひとつの別のイメージがある。そこには、黒い覆面をかぶって口元だけを露出した告白者が、小泉の「もっと曝け出せよ!」という画面の外からの強制に応えるべく、口をパクパクさせている。しかし、声となって出るのは、無数の他者が発した声をつなぎ合わせたものでしかなく、告白者がサウンドトラックに刻むことを許されているのは、鼻息、そして文字にできないような呻きだけだ。なぜなら「えーっと」「あーっ」という感嘆詞でさえ、それを文字にしうるのであれば小泉は見逃すことなく他者の声をあてがうからだ。
告白者たちのもっともプライヴェートな言葉、絶対的な匿名性を保証され、小泉に怒鳴られることによって初めて露出した言葉は、すぐさま「声」を奪われる。「無意識は他者の語らいである」のなら、この無数の声を担わされた告白者の言葉は無意識のパロディーなのだろうか。じっさい、小泉によって「これまで誰にも話したことのない怒りや憎しみ、衝動」を曝け出すよう強いられた6人の告白者たちが吐き出す言葉は、戸惑いを覚えるほど凡庸である。
イメージに裏側はない。裏側を見るために回り込んでも、そこには別の表側が、あられもなく開示されているだけだ。ふたつのイメージの同期は、声によって保証されているが、それだけに声にならない音がわれわれの意識を引く。片方においてそれは東京の立てるざわめきであり、もう片方においてそれは告白者の声以前の息である。告白におけるこの回収されざる余剰だけが、まだ言われていないこと、言われえないことがあることを知らせ、最後のひとことの手前で沈黙しうることの救いが、彼らがこれ以上イメージを断絶させませんようにとわれわれに祈らせるのだ。