京都芸術センターにて開催中の、展覧会「ハイパートニック・エイジ」。出展作家のひとりであるNAZEは、現代に生きる個人としての混迷の中で、つくる事を希求し続け、自らのアーティスト存在を存続させている。
本展覧会には、NAZEの「日記」という作品が、フライヤーデザインとして採用されていた。
日記という存在は本来個人的で、自己完結的なものであるが、この私的メディアは、フライヤーに転用されることで、より大きな公的メディアへと昇華されていった。その時「日記」は、アートの文脈や私的な文脈とは切り離され、ひとつのデザインとしての文脈に書き換えられていくのである。そしてそれは、展覧会宣伝という「必然性」をもって、外のコミュニティ内に流布されていき、外部への歩み寄りを可能にするのだ。
彼の作品の根底にあるのは、つくることへの純粋欲求である。しかし、この文脈の書き換えこそが、NAZE作品の本質であり、それは同時に彼自身のアーティスト存在の帰結を証明している。そしてそれらは、見事にフライヤーに暗喩されていたのだった。
NAZEは普段、都市に広がるゴミを寄せ集めたオブジェを制作したり、壁にグラフィティをしたりと、あらゆるモノに対し、物理的な書き換えを施すことで作品化するアーティストである。その書き換えの原則は、常に都市内部で起こる公的な事柄を、私的なものに置き換える形で展開されていく。しかし、その私的さは常に「作品」として提案され、発表される。つまりこの行為は、公的な都市としての文脈を、同じく公的なアートワールドとしての文脈へと転換させる行為なのだ。この時、NAZEの純粋欲求は私的であるがゆえに、重要な立ち位置を示す。彼は、その中で同時通訳的な手法をもって作品を展開し、欲求は常に「アート」の中で帰結されているのだ。その状況は、彼自身のアーティスト存在よりもむしろ、アート存在自体を予感させるものとして成立していた。
私的なものと公的なものとの境界をあやふやにすることが、NAZE作品がアートに帰結する上での必然的要素である。つくることへの希求と、見せることへの欲望は並行して進められていき、結果的にそれはアートワールドへと書き換えられる。
この時、彼を纏うアート存在は、彼自身の純粋欲求の寄せ集めからなる、「必然性」をもったアーカイブとして拡張し続けられるのだ。そして、そのアート存在はNAZE自身のアーティスト存在を裏付ける形で立ち上がる。
私は本展覧会、または、広くアートワールドの中で、彼のつくる事に対する欲求と、それに準ずるアーティスト存在が最終的にどこに帰結するか、ということを見ていた。 NAZEは、己の中のクリエイションの呼応反応が見せる自家発電的な閉鎖されたつながりに対する措置として、必然的にアートというフォームの中でアートワールドに帰結していた。
彼は、つくることへの欲求を、必然へと向かわせる。そして、その欲求と必然は相互関係をもち、最終的には他者への歩み寄りに帰結するのだ。