声、批評、エージェンシー
関係者との手渡しによってのみ購入が可能な批評誌『アーギュメンツ#1〜3』の累計販売数が3,000冊に届いたという。#2、#3の編集長を務めた批評家・黒嵜想が(#3は仲山ひふみとの共同編集)現在「ALLNIGHT HAPS」のキュレーターを担当している。冠されているタイトルは「呼び出し、交換」なのだが、そこで問われているものは「呼び出し」でも「交換」でもなく、それを可能とする条件である/あった「取り次ぎ」である。無媒介性、即時性、透明性、無手続き主義が全面化するなかで、「取り次ぎ」の役割は隠蔽されている。真っ先に評価したいのはこの概要/コンセプトの強度と、ALLNIGHT HAPSの「オープン時間」の(暫定的な)一致である。平たく書けば、ようやくALLNIGHT HAPSは「オールナイト」に展覧会をする必然性を得たのである。(念のため注釈をつければ、作品レベルで言えば「公私混同のかたち」展でのIDEAL COPY、「日々のたくわえ」展での迎英里子などの前例はある。しかし問題は、キュレトリアルな部分における時空間の必然性である。)
トークイベントを拝聴する機会を筆者は得たが、そこでのタイトルはまさに「取り次ぎ」であった。「声」をめぐる問いを構成しつづける黒嵜の一貫性が遺憾無く発揮されていたこのトークイベントの報告と記録も兼ね、筆を取ろうと思う。
黒嵜は、蕗野幸樹、奥祐司、岡田真太郎の実践を例示しながら、彼らの行為がどのように「取り次ぎ」としての力能を備えているのかを説明していく。それと並走するかたちで、『アーギュメンツ』において連載し先ほど完結をみた「仮声のマスク」の論旨も提示されていく。これは黒嵜の「批評とは何か」、「批評家とはどういう実践者なのか」という意思表明であり、無限の差異化と一元的掌握が同時に進む現代社会において、共有可能な単位を設定し直そうとする彼の態度そのものであった。これだけでも改めて黒嵜の「声」を聴取した甲斐はあったのであるが、彼はさらにもう一歩、進めようとする。
彼はいま「入国管理局」について考えているという。入管収容センターの「外国人」たちの「声」について考えているという。彼らの待遇改善を求める声は日々強まってはいるものの、路上でのデモは共感を即座には集めない。その理由の一端を、黒嵜は「カタコトの日本語」に求める。そして(近年増えている)日本語を母語としない声優の「カタコトの日本語」には共感が可能になっているという現象を指摘する。「カタコトの日本語」を「不完全性」や「説得力のなさ」へと接続するのではなく、新たな関係性を取り結ぶ「取り次ぎ」として機能させるにはどうすれば良いか。批評という言語を操作する者の切実さにおいて、彼はこの問いに取り組もうとしているようだ。ここではすでに「批評と社会性」などという逡巡は一瞬で通過されている。
「取り次ぎ」ということばを聞いたとき、筆者はひとまずそれを「メディウム」として理解していた。媒介、である。それぞれ異なるものたちと結びつけるもの。それは新たに第三項として導入されることもあれば(それは多くの場合「メディア」となる)、個々の物質性それ自体の性質がその役目を果たすこともある。蕗野幸樹、奥祐司、岡田真太郎の3人を、「各集団を結びつける第三項的な存在」として考えることは周到に避けなければならない。彼らの実践を二次的なものとして捉えてはならない。(かといって彼らを例えば「アーティスト」として称揚することもまた慎まねばならない。)それぞれの実践に内在する「メディウム」的特性を分析することが求められている。その特性をひとまずなんと呼べば良いだろうか。「取り次ぎ」の英訳は、はたして「エージェンシー」であった。