怖かった。感想を一言で言うなら、これに尽きる。
会場はざっくりと大小2つの空間からなっている。うち入り口すぐのより大きいスペースには、中央に焚き火を模した造形作品が置かれており、それを囲むように壁や壁際の床にも多くの造形作品が設置されている。架空の生き物や、実在の動物等をもとにしたもので、どれにもビー玉らしきもので「目」が付けられている。
ここまでなら「可愛い」で終わるが、異様なのは焚き火を含めほぼ全作品の全面ないし一部分に、「毛」が生やされていたことだ。
「毛深くはないすね毛」くらいと言えばわかりやすいだろうか。「地肌」ははっきり見えるが、またはっきりと「生えている」とも認められる密集感。一つ一つ手作業で取り付けていったと思うとその地道さを察した。奥にある小さいほうの展示空間にも、同じく毛を生やされた造形作品が展示されていた。こちらは壁中央にかけられた『自画像』と「供え物」然と置かれた「杯に盛られたフルーツ」の作品とが相まって、祭壇めいた雰囲気を感じた。唯一毛のなかった、蛸をもした作品の安心感ったらなかった。
毛はそのまま「生き物」を想起させ、それが私の中で「怖い」という感情に繋がっていた。生き物が怖いのは、「どう動くか予想ができない」からだ。例外として、ペットを「可愛い」と撫でられるのも、友人とともにいて警戒せずにいられるのも、その動きを予測できるからだ。毛を与えられ、「置物」と「ケモノ」の境が曖昧になった作品たちは、見ていない間に毛の一本くらい震えていそうな、微々たる怖さを植え付け続けてくれた。
しかし改めて考えてみれば、ペットがいつ私の手を噛まないともしれないのだ。インスタグラムを見れば人に慣らしたトラやライオンとともにソファでくつろぐ男性などの「猛獣ペット動画」もたまに目につくが、いつなにかの拍子に最悪の自体になってもおかしくない。それは人に対しても同じだ。長年付き合っていてもふとしたこちらの言動で怒る人はいるものだ。どんなに理不尽だと思っても、こちらの言動が気に入らなければ相手は(人であれ動物であれ)「ケモノ」になる。
それは私自身も含めて、そうだ。今思えば、作品に対して抱いた「怖さ」は、現実に対してであり、自分に対してでもあったのかもしれない。後付的に書けば、自分の容姿だってなんと奇妙で、怖いのだろうか。薄いがはっきりと生えているすね毛、脇毛。慣れているからなんとも思わなくなっただけで、私だって奇妙なケモノなのだということを想起した。