本展の基調概念である「『感覚民族誌』的観点」という言葉が日本に導入された学術的な来歴史はわからないが、2014年に映画『リヴァイアサン』が公開されるにあたって、2名の映像作家がハーバード大学のSensory Ethnography Lab(感覚民族誌学研究所)に所属しているという紹介文がアート関係者の中でも認知されて以降、この「エスノグラフィー(民族誌)」と「センサリー(感覚)」の奇妙な組み合わせは、文化人類学的領域に存在している儀式的・民族的なパフォーマンスを映像や音響によって記録し、それを芸術的な範囲内で作品化・上映・展示する際の便利な言葉として認知され始めたように思われる。そもそもブロニスワフ・マリノフスキ(と動物学者)によって1922年に提唱された「フィールドワーク」と手法は、かつて研究室で文献を漁っていた学者に対し、非西洋圏に位置する民族や集団のもとで一定期間滞在しながら、言語の習得はもちろんのこと、観察を通して情報を収集し分析せよというものであった。以来、文化人類学はフィールドに赴くことが基本タスクとなり、1960年代に沸き起こったカルチュラル・ターンを経て、現在では西洋も含む幅広い社会やコミュニティがフィールドワークの対象となっている。本展出品者であるAnthro-film Laboratoryの活動はこの延長線上にある。
次に「芸術」に関する野外での実践に目を向けてみる。絵画史における屋内(アトリエやスタジオ)から「戸外制作(オンプレネール)」への移行は、イーゼルやチューブタイプ油絵具、パレットなどの発明により、一般的には1800年代中頃から始まったと言われている。バルビゾン派やそれに続いた印象派は、それまでのアカデミックなモチーフを絵画化することよりも、自然光によって照らされたランドスケープを色絵具に置き換えることに魅了された。彼らは携帯可能な道具とともに屋外へと繰り出すことに重きを置き、神話ではなく現実を捉えようとした。言うまでもなく、その革命はアート史に大きな影響を与え、多くの現代美術作品はこの功績の上に立つ。映画出自のヴィンセント・ムーンと、上演芸術から活動を発展させてきたcontact Gonzoは、細かくみると異なったジャンルの中で仕事を遂行しているが、芸術という大きな枠組みで括ると科学よりも感覚の分野に属していると言えるため、あえてこの両者もバルビゾン派の線上に置いてみたいと思う。
さて、それぞれ「社会科学」と「芸術」に起こった転回には約100年以上の隔たりがあるが、それらを同空間に置いてみた場合、3つの作品傾向は以下のように記述できる。
1. ヴィンセント・ムーン: フィールドワークあり/戸外制作
感覚[芸術]からの、民族誌的領域[社会科学]を対象とした、感覚的[芸術]アプローチ。
映像記録の展示[芸術]。
2. contact Gonzo: フィールドワークなし/戸外制作
感覚[芸術]からの、感覚的[芸術]アプローチ。
映像記録の展示[芸術]。
3. Anthro-film Laboratory: フィールドワークあり/戸外制作
民族誌[社会科学]からの、民族誌的領域[社会科学]を対象とした、感覚的[芸術]アプローチ。
映像記録の展示[芸術]。
確認のために述べておくと、本展は「芸術」を扱った展覧会である。さらに、これまでの@KCUAの文脈やデザインのパッケージも含めると、コンテンポラリー・アートの展覧会と言い切って間違いないだろう。それゆえに本展は、「従来の学問それぞれのアーキテクチャー自体の拡張、発展へとつながる極めて重要な実践」を目指しつつも、「美学的」かつ「感覚的」な営みであり、新たなキュレーションをも目論んでいるはずだ。概要テキストにも記されている通り、美術表現はすでに90年代に人類学的手法やポストコロニアル理論を取り込んでいた。つまり、コンテンポラリー・アートは、自らの制度外のものを取り込み続けることによって発展してきた、という自覚が少なくとも展覧会サイドから述べられている。ということは、本展は「感覚民族誌」的観点から「人類学」の知見を再領土化、あるいは部分的吸収を通すことによって、「芸術」領域がより進展することを目指している、と解釈できる。
そこで先ほどの簡略化した分類に戻ってみた場合、1と3はフィールドワークやそのリサーチ対象に伴って、「民族誌」の観点が「芸術」の分野に持ち込まれていると言える。両者は形式上、学問分野を越境しているからだ。それゆえに、1に関して、例えば同じようにブラジルの儀礼を扱った映画『The Space In Between』と観比べてみた場合、何かブラジル特有の身体感覚が失われているように感じられが、ここで展示することに意味はあったと評価することができる。3についても、1Fの参加側インスタレーションへのコメントは控えるが、2Fにあった数人の研究者たちの学問的な映像と無骨な展示はかえって新鮮でもあった。配布物にも書かれているように、学問的でアクチュアルな問題からの出発は、動機が明文化されにくい芸術活動にとって良いレファレンスとなる。
ともあれ、ここで問題なのが2である。パフォーマンスの残骸と、少しギミックを加えた記録映像や上演音源を併置したインスタレーション作品は、このような「人類学」と「芸術」の交差を意図したキュレーションにおいて、実はまったく何も生み出してはない。一見、即興的な身体接触を含むパフォーマンスと、それを素材とした設置作品群は、「部族的」「儀礼的」に見えるかもしれないが、彼らが実践しているのは上演芸術と展示芸術の架橋であって、「『感覚民族誌』的観点」で包括するのは間違っているように思われる。彼らは決して文化人類学的フィールドワークに出ているわけではなく、実際はただ戸外制作を行っているだけであり、前者においてもっとも大事な「異文化(あるいは他者)との接触」という部分が欠けている。本作品は感覚から出発し、感覚的な出力が志向され、現代美術的な記録展示としてインストールされているために、彼らの活動は初めから「芸術」の領土内なのである。ちなみに、今回に関しては本領である展示芸術としても失敗していたと言わざるを得ないが、これに対する言及は割愛させて頂く。
最後に、もし仮に2が本展を通じて「芸術」や「文化人類学」にとって意味あるものとするなら、1と3と同様、彼らをフィールドワークの対象そのものとし、研究者かアーティスト、あるいはキュレーターの観察を通した成果展示を試みることである。そうすることによって、本展には現代アーティストコレクティブ[芸術]の、文化人類学的・感覚的考察[社会科学]という未踏の項目が加わり、彼らの美学や規範が展示として描写され得る。それは両学問においてもプラスになったであろう。