私は、古橋悌二とほぼ同世代(私は1959年生、古橋は1960年)だが、私はDumb Typeがその代表作(「pH」「S/N」など)を生み出していた1980年代後半から1990年代前半にかけて、その名は目や耳にしていても、彼らの活動内容を全く知らなかった。たぶん、私にとって彼らの活動や創作物は「かっこよすぎ」たのだと思う。それから20年以上を経た今日、やっと私は、気負いなくその作品と向き合えたと思う。
今回の展覧会(および関連企画)は、1994年の初回展示(東京ヒルサイドプラザ等)以降、何度か改訂を重ねながら再演されて来た作品を、可能な限り完全な形で後世に伝えるべく、せんだいメディアテーク(2013-14年)での最後の展示をもとに修復した成果とその過程を展示する。
1.作品
京都芸術センター講堂の約10m四方の部屋は漆黒の闇に閉ざされていた。入室した直後には、何も見えない。作品が上映されている事すら良く判らない。次第に、目が闇に慣れるに連れて、部屋の四周の壁面を左右に行き交い、止まり、動作する裸形の人物たちが認識される。
通常、映写機で映像を壁面に投影する場合、部屋の照明は落とすけれども、スクリーンは白色である。しかしこの展示では、スクリーンとなる四周の壁面は黒いスクリーンだ。黒いスクリーンの上に投影される画像は、色彩とコントラストに乏しい。また動画画像情報そのものの解像度は低く、ピントも甘い。映し出される人体は、蜃気楼のようにおぼろで、儚く見える。
裸の人影は、私が見た限りで最大5人が同時に現れる。男性が3体、女性が2体。それぞれ別人物の実写であることは確かなようだが、不鮮明な映像から判別は難しい。これらの人影は、四周の黒いスクリーンの上を右から左、左から右へ歩く。立ち止まる。いきなり振り向いて走り出す。人影たちはまるで無関係なように追いかけ、追い越し、すれ違いながら、時折、立ち止まる。
これらの人影を追いかけるように、(人影の朧さと対照的に)細く鋭い垂直の光の線が左右にスクリーンをスキャンして行く。線には時折、limitやfearの文字が添えられる。それは壁面に仮構された円環状の二次元世界に住まい、動き、追いかけ、逃げ、出会い、そして抱擁し合う幾人かの人影たちが共有することを強制されている「世界線(絶対的現在時)」「行動(行為)の不可視の目標」「感情の極点(限界)」を指し示しているようだ。しかし彼らの動きを見る限り、彼らにはこの光の線は認識できていないようだ。
さて、特筆すべき出来事は、時折、ふたつの人影が同じ場所で重なり合い、互いに抱き合う(ような仕草をする)ことだ。彼らがそれぞれに歩いて動いている限り。彼ら同士はまるで相互に感知せず、認識すらできない別の次元によって隔てられているようだ。ところが、時たま、立ち止まっているひとつの人影に別の人影が重なる時、ランダムな確率的な出来事のように、異なる次元平面間でその次元を越えて接触を許され、その希少な機会を逃すまいと、即座に、人目もはばからずに、彼らは互いに抱擁し合うのようだ。
こうしたランダムな中にある特異性を持つ動作を繰り返す人影の中に、さらに特異な動きをする人影がひとつある。他の人影と同じように歩きながら、時たま、4つの壁面のいずれかの中央で立ち止まり、こちらを向いて、首をかしげ、十字架に張り付けられるように両腕を拡げる。垂直の光の線が彼を貫き、十字を描く水平の線分がこれに交差する。そして彼は私を抱きしめるように腕を閉じたかと思うと、スクリーン奥の奈落へと転落して行くのだ。
種々の解説等を読む限り、この特異な人影こそ、古橋本人であるようだが、私はそのことに特段の重要性は認めない。ただ複数の人影の中に、特異な命運を担う者があることが重要なのだ。これを私は「特異な一者」と呼ぶことにする。
この事態を言い換えよう。特異な一者を除く者たちは、自分たちが共有する円環的世界の中でだけ生きている。私たち観覧者とは無関係な世界に生きている。そこは彼らだけで自律した世界であり、私たちはその動作に働きかけることができない。
しかし、特異な一者は、何やら私たち観覧者の存在や行為を認識し、それに感応しているようなのだ。これも種々の解説等によれば、天井に仕込まれたセンサーによって、特異な一者は上記の十字架と転落の動作を行っているらしい。そしてその際、壁面中央の手前の床に「Don’t cross over the line or jump over」の文字が天井のプロジェクターから円環状に投影される。しかしその「Line」がどの線を指すのかは、定かではない。
作品はこうしたシークエンスを繰り返しながら、明確な開始や終了を示すことなく、エンドレスに繰り返される。音響は金属的なパルスがランダムに繰り返され、そこに意味聴取不能なほど歪んだ音声が重なる。人影の動きと音響の有意な関連性は、私には感知できなかった。
2.機材タワーと観覧者
この映像は会場の部屋の中央に置かれたタワー状のラックに設置された映写装置から壁面に投影される。5台のビデオプロジェクターが人影を、2台のスライドプロジェクターが光の線を投影する。
全てのプロジェクターはステップモーターで駆動されるターンテーブルに載せられておりプログラミングに従って回転する。人影の歩み、走り、光の線の水平方向の動きはターンテーブルの回転によって作り出される。
観覧者は、この映写タワーと壁面スクリーンの間に居て、観覧することになる。この観覧者の存在が、投影される作品に大きな影響をおよぼす。観覧者の身体が、投影される光束を妨げることが避けられないのだ。そして、壁面の映像を熱心に見つめている観覧者ほど、自身が投影の妨げになることに気づかない。
また、この事実に気づいた観覧者の中には、積極的に自らの身体を投影される人影に重ねてみたり、光の線を追いかけて、自らの身体をスキャンさせてみたりする。
「そこに立っていると、スクリーンが影になりますよ」「上手に真似ができますね」「光の線がきれいに身体通り抜けましたね」などと対話が生まれるわけではない。あまりにも暗く、そこに共存している観覧者を全く判別できないのだ。
観覧者である私たちもまた、スクリーン上の人影たちと同様に、互いに疎遠なままなのだ。でもそこに対話(接触)が生まれる可能性は、ないわけではない。しかしそれは生まれない。事実として。
そう、観覧者たる私たちと、スクリーン上の人影は、いわば「似たもの同士」、すれ違う者同士なのだ。
3.資料
講堂での作品展示と共に、今回は修復作業のために用いた資料や中間成果、報告書などが別室(隣接の談話室)で展示された。
「資料」は主に、1994年の初回展示から現在までの数度に渡る展示機会に関する文書や画像である。それらの資料を通じて読み取れることは、以下のような事情だ。
まず、この作品は、部屋の大きさと、天井へのプロジェクターおよびセンサーの組み込みの可否によって展示形態がかなり異なることが避けられない。特に天井への組み込みができない場合は、壁面に文字情報が投影される場合があり、かなり大きく作品の印象を異なるものにする。
また、天井への組み込みは最大8台(壁面中央4台、隅部4台)だが、壁面中央のみに組み込まれることも多く、今回の展示もその形態による。
さらに、過去の展示に伴って書かれた解説文なども読むことができたが、いくつかを読む限り、作品の表題である「LOVERS(恋人たち)」という語句に過度に反応し、「高度資本主義、ポスト産業社会以降の現代における愛(LOVE)の存在様態」の極度に抽象化された表現として作品を読もうとする態度を多く読むことができたと思う。しかし、そうした社会状況が常態化し、それへの批判的態度が前提となっている現在、裸形の人影のぎこちない動きとランダムな出会いが表現するものは、もっと日常的な人と人の直接のコミュニケーションの可能性への不安とその希少性として一般化できるように思う。
4.ダイアグラムとシミュレーター
この作品は、複数の映写機が投影する画像、映写装置を回転させるターンテーブル、および音響のあらかじめプログラミングされたタイムラインが正確に同期することを前提に、さらに天井のセンサーの感度と検知範囲、天井のプロジェクターの動作などがこれと協調することが必要な、非常に高い精度を要求されるインスタレーション(展示構築)である。
これらの内、少なくとも投影装置とターンテーブルの作動と同期はこの作品の基本であることは、修復チームも強く認識しているようだ。そして、過去に実際に展示(投影)された画像の動きと、プログラミングされたタイムラインの「理想的」なシークエンスに差異があることも認識されている。
そのことを確認し、現実と理想の差異を明確化するために、各投影映像とターンテーブルの動作のタイムラインを「現実形態」「理想形態」を比較する形で表現する「ダイアグラム」が展示されており、さらに両者を「仮想動画」として比較できるシミュレータがコンピュータ(iMac)上に構築、展示された。
実際の展示では、私たちの視野は通常180度を超えることはないが、シミュレータによって360度の視野で作品のシークエンスが確認できることは、作品読解に新しい視野を開くものである。
5.レポート
談話室では、この作品修復作業の過程と成果を取りまとめた「報告書」を読むことができた。報告書のバインダファイルは、談話室奥のテーブルに、過去の展示機会の記録(もしくは広報)映像を映示するビデオモニターに傍らに置かれていた。
報告書では、過去の展示履歴を回顧し、同種の映像作品の修復事例を参照しつつ、今回の修復の条件設定と具体的な修復手法、修復された作品の極めて具体的な設置および操作要領が記されている。
具体的には、ビデオプロジェクターやセンサー、光の線のスライドの更新、特異な一者以外の画像のデジタル化とDVD化、反面でスライドプロジェクターおよび特異な一者の画像(レーザーディスク)のフォーマット維持、各機材の設置方法、その起動およびシャットダウンの手順などである。
6.理想型とリミックスの可能性
この作品が、ある種の妥協のもとに構成されていることは否定しがたい。
まず、人影たちの世界は、切れ目なく連続する円環(円筒)状の二次元世界であることが理想だ。しかし現実には真円平面の円筒形の会場を確保することは困難だ。さらに、投影機材を設置するラックには通常4本の足(柱)があり、これが必然的に映像を妨げる。四角い部屋と4本の柱を持つ機材ラックは、いわば私たちの日常世界を支配している「四角」を代理表象しつつ作品を限界づける。
もし、理想的な円筒形の展示室、それも観覧者が出入りする口すらも持たない完全に連続し閉鎖された円筒の部屋に、柱を持たない支持体に支えられた投影装置(例えばこの作品のために特別に設計製作された同軸回転式7連投影機)を整え、天井には観客一人ひとりに追従して動く数量(事実上)無制限のセンサー&プロジェクターセットを持つワイヤ駆動式の装置といった形態が考えられる。
その際には、現在までのこの作品の素材映像では部屋の四隅部分では映像が一旦フェイドアウトするが、理想型では暗転することなく連続的に人影が動きつづけることが想定される。
しかしこれはすでに、理想型を超えて、一種の「リミックス」であろう。新しい機材やアイデアを用いて、既存の音楽素材を再構築するリミックスと同様に、映像作品、さらに造型芸術一般における「リミックス」を構想することは、今回の「修復保存」の先にある、より積極的な姿として想像できる。
私個人としては、芸術家がその作品の構成素材を他者に公開(譲渡)し、再構成の自由を保証(承認)することは、新しい芸術表現の可能性を開くものになると思う。
7.映像の中の世界、映像と私たち、そして私たち同士
改めて、この作品の、そして作品修復の、私にとっての意味を整理する。
作品を、私たち観覧者から外在的なものと前提し、観覧者の影響を度外視すれば、作品中の人影は、全ての文化的限定を剥ぎ取られた裸形であり、人間的本質を体現する者として現れる。しかし彼らは互いに不可知な次元で動き、追いつき追い越され重なり合っても、感知すらしない。しかし時折、同じ場所で立ち止まり、抱きしめ合う。コミュニケーション不全(不可能または不必要)な私たちのあり方の極端な戯画であり、本質を抽出された私たちの姿だ。
しかし、この作品の装置的な仕掛けおよび限界は、観覧者たる私たちの関与を必然化する。センサーは否応なく私たちを追い回し、感応し、特異な一者を通じて私の注視を要求し、私を抱きとめ、奈落へともに引きずり込もうとしつつ失敗する。私たちは同時に、否応なく、また意識的に、投影される光束を遮り、作品を阻害する。
そうして、作品に介入することを余儀なくされ、他の観覧者のふるまいに苛立ち、自分が作品を阻害していることを危惧する私たち同士は、対話することによって作品のより望ましい現動化を救うこともできると思いつつ、闇の中のシルエットに過ぎない他の観覧者に話しかけることができず、結局、スクリーン上の人影と同様に、すれ違い続けるのである。
最後にこの修復成果が、京都市立芸術大学の崇仁移転に伴って、この作品が常時観覧できる状態で保存、展覧されることを望む。
2016.08.09
古橋悌二《LOVERS-永遠の恋人たち》
京都芸術センター
2016年7月9日(土) - 2016年7月24日(日)
レビュアー:山田章博 (56) 市民空間きょうと代表、ask me!cafe京都店主