私は普段から頭の中がわりかしごちゃごちゃしていて、雑音だらけの中で生活している。いつもそわそわして、何かにビクビクしているような気がするし、グルグルと何かについて悩んでいる。でも、村田さんの作品の前に立つと、そんな雑音がぴたりと止んでしまった。
その日は京都のむしむしとした中を、頭の中をいろんなしょーもないことでグルグルさせながら水族館や鉄道博物館に向かう家族連れや海外の人と途中まで一緒に歩き、会場のtraceに向かっていた。倉庫の2階にある会場に入ると急にひんやりして、中央に掲げられた大きな作品に目がいった。音はいきなり止んだ。会場には人が何人かいたけれど、不健康に余計なことを考えていた脳みそがぴたっと動きをやめてしまって、そこにあるのは私と作品だけになってしまった。一瞬の時間がぐっと濃ゆくなって、そのとき私は体全部でみて、聞いて、場所をすごく広く感じていた。
今でも何が起きていたんどろうとずっと考えているんだけれど、あの瞬間は地層みたいな、地球の時間の層をみてるみたいだったし、山の上から景色をただひたすらみるときみたいだったし、歴史あるお寺でじっとしているみたいでもあった。あの時の私は、時間の濃ゆい濃ゆい濃度に全身で浸って、その時間の奥行きにもの凄く集中していた。たぶん滞在時間はそんなには長くなかったと思う。本当にちょっとしか会場には居てなかったんだけど、あの一瞬一瞬の深さは、ただ単に絵を見に行ったなんかではよく説明がつかなくて、きっと何かを体験していたのだと思う。
以前村田さんの作品について友人とそれぞれの意見を話したことがあるんだけれど、彼女は村田さんの体や意識の底にあるハードで説明のつかない怖さのような物をみていて感じる。みたいなことを言うていた。私は実は未だにその言葉の意味をとれていなくて、それは誰しもがなりうる精神的に参ってしまった結果、病んで怖なる。とか言う話ではなく、山とか海とかそんなものに対する畏敬の念みたいなものの感じなのだろうか?と勝手に思っている。ただ単に山登り行きました。海水浴いきました。と言ってしまうと抜け落ちてしまうニュアンスが自然には絶対にあるような気がする。人が何か自分の力の及ばない物を恐いと思うと同時に、大事に大事にみんなで共有していこう。と思わせてきた不思議な力が自然物にはあると思うのだけれど。違うかなあ?またその子に話しにいってみようと思う。
とにかくそのなんだか張りつめた気持ち、自然の底知れない深さにただただびっくりして恐くなって言葉を失って、だけどそのことに感動してしまう感覚に1人の人が真摯に向き合っている様を私は村田さんの作品をみていると思い浮かべるのだ。