のっぴきならない誘導、だった。誤変換ではない。私はいつものように遊動していて、どれ、今日は芸センでも行ってみようかと。自転車置き場から出てすぐ、センター北館前、展示の入口らしき掲示が目に入る。それに誘導されて館内へ。
階上へ伸びるスロープの脇、薄暗いスペースに、二藤健人の《私の愛は私の重さである。》が上映されている。「私の重さ」、体重、地球に引っ張られる力。ロケット打ち上げの様子が映される。重力から逃れようとする試みは死と隣り合わせだ。映像が切り替わる。全裸の男女と子供が森の中にいる。男は女を肩車して、女は子供を肩車して、三重の塔状態。続いて、この家族タワー(と呼ぶことにする)と不穏で雑多な映像—やはり重力と死を結びつける映像—が交互に表示される。家族タワーは、徐々に、徐々に、低くなる。タワーが地面に沈み込んでいるのだ。子の体重、女の体重、男の体重、ああ、これが愛なのか。地球へめり込む。
愛の重さを噛み締めて、しかし私はスロープを伝って階上へ向かうことになっている。足取りは重い。じきに黒宮菜菜の絵画《半透明を纏う》と《無題》が現れる。ああ、そうか、と、私は衣服の重みを意識する。そういえば家族タワーの彼らは全裸だった。しかし私は衣服を纏うことを選びとり、纏い方を選び、このことは紛れもなく自己の一部だ。窓から射し込む光のおかげで、踊り場にある黒宮作品は、衣服を纏うことにした人類を祝福する祭壇画のようにも見えた。
少し元気が出てきた。スロープをさらに登る。どこからともなく、声援が聞こえる。空耳、ではない。若木くるみの映像作品《鯖街道 77km》が発する音声だ。若木とその友人の武内明子が鯖タイツを纏って鯖街道ウルトラマラソンを走る様子が映し出されており、映像内で声援が飛び交う。
若木作品に背中を押され、ようやく最上階。そこには《雑巾男》(二藤健人によるインスタレーションと映像)がいた。雑巾男は雑巾を全身に纏い、街角で、ギャラリーで、這いつくばって、のたうちまわって、汚れを拭う。汚れを取り込む。汚れを纏う。せっかく地面から離れて、上へ、上へと登ってきたのに、重力に身を委ねるだけでは飽き足らず、自ら地面や床や壁面に身体を押しつける妖怪に出会うことになるとは。しかし雑巾男は、それでこそ雑巾男なのだ。
着た道、いや、来た道を引き返す。雑巾、鯖タイツ、半透明、全裸。北ギャラリーを訪れ、黒宮菜菜の作品群に見守られながら、己の着た/来た道を反芻する。南館へ行こう。南ギャラリーには、二藤健人のインスタレーション《人間、不在を映す鏡》。地面を蟻地獄のように掘削した地形の巨大なジオラマが設置されている。人間の姿は見当たらない、が、低い、何かを打ち付けるような音が響き続けている。掘削の音だろうか。あるいは、どこかで人間が沈み込み続けているのだろうか。地下へ、地下へと意識を研ぎ澄ます。
さて、ここで、どんでん返しがある。最後の作品は南館四階にあり、そこへはエレベーターを使って行けてしまうのだ。スロープに誘導されて重力に囚われ続けたこれまでの道行きは何だったのか!
ともあれ四階に到着し、和室の戸を引く。そして若木くるみのインスタレーション《熱の痕の暇?満点の女?》に面食らう。そこには、お茶の間があった。テレビが点いている。芸能人が「アーホ」な美術作家をツッコみ倒すテレビ番組に、若木が出演している。ちゃぶ台に、収録時のことを振り返る若木の感想文が置かれている、と思いきや、これは原稿用紙と文字の絵がちゃぶ台に描かれているのだった。よく見ると、周囲にも日常のお茶の間の小物が、テレビ収録のセットの書割のように騙し絵で再現されている。他方で、不自然・不整合な造形物がふんだんに見られる。さながら、収録時に自分の言葉を発することが許されなかった若木の内面世界に入り込んだかのようだ。所在がない。エレベーターを使ってたどり着いたこの空間は、一見、宇宙にぽっかりと浮かぶ、重力から解放された異空間のように思えたが、むしろブラックホールだったのではないか。時空間が凝縮され、重力は極大化する。ここは危険だ。和室の地袋の天板に、ひっそりと、銭湯ののれんが描かれているのを見つける。そうだ、湯船に浸かっている間は、引き受けるべき重力は激減する。よし。
そういうわけで、私は地上に帰還し、銭湯に向かった。まったく、終始、のっぴきならない誘導だった。