ギャラリーの壁面に施されたドローイング《仮面と複数の人生についての壁画》には作者の関心事が端的に表されていた。大西は自分が女性に生まれていたら付けられるはずだった名前をモチーフに、別様でもありえた自分の可能性に関する制作も行っている。並行する「タイムライン」として別な人生が図示されていたことから、今回の展示も、そうしたテーマの延長線上にあることが分かる。
しかし、「意識のコンテナ」というタイトルは──すこし飛躍するのだが──別人でもありえたことよりも、むしろ他人になることに深く関わっている。すなわち、身体が「意識」ないし自我の容れ物として捉えられており、別の「容器」に移し替えれば他人の視点で世界を見ることができるというわけである。そこで重要なのが「仮面」である。役に応じてつけられる能面ではないが、仮面は別人になるための装置であると言える。4枚のTシャツ作品は、それぞれに特定の人物の顔面が全体に引き延ばされてプリントされており、それを着ることでその人になれるというようなものである。身体が脱ぎ着できるものとして仮想され、それを顔が代表しているように、容器としての身体を象徴するものとして仮面が用いられているのである。
もっとも、仮面というモチーフは大西の制作全般に通底するものかもしれない。誰とも分からない、あるいは誰のものでもない顔の画像をプリントアウトし、その紙をクシャクシャにしたものを描いた一連の絵画作品が──そもそも仮面のことを「おもて」とも言うからではないが──仮面の表に関するものだとすれば、今回の展示は仮面の裏に関わるものだろう。つまり、仮面を客体として見る立場ではなく、仮面をつける主体の側が問題になっているのである。
映像作品《覗き見る主体》は、日常的な光景が流れるばかりだが、それが仮面の穴を通して見られていることを示すように、まるく縁どられている。ただし、そもそも映像とはフレームで切りとられたものであり、ビデオカメラによる撮影は仮面をつけるときのような視野狭窄をともなう。また、「覗き見る主体」というのは、仮面をつけることで別の誰かとして生活している作者のことを指すと同時に、その映像を見ることで他人の「記憶」を覗いている私たち鑑賞者にも当てはまる。つまり、この作品は、映像を見ることが、すなわち「他人になる」ことなのだと自己言及的に証明しているのである。