展覧会は、2人の作家による、それぞれ氷と化石をつかった作品で構成されている。
最初に会場入り口で渡されたレジュメに何重にも貼られたシールの盛り上がりが立体的に示す、日々更新される降水確率にまつわるタイトルの音の作品や、冷蔵庫の霜取りの機能を使って、その場所に漂う水分を氷に変えて可視化した作品は、日々変化するその場所の現時点を表わす。
遠い北海道から定期的に送られてくる氷を会場に配置した作品は、時と空間の移動へ思いを馳せながら、河原温の郵便物の作品や昨今の宅配便の値上がりの事などを頭に浮かべて無粋さに思いとどまる。
中庭の屋外のメインの展示スペースで上映されている「氷橋の映像記録2018」は、映っている人がどこかぎこちない。はじめて見た時は、雪国で行われているその作業が、なかなか氷橋を作る作業である所に意識が辿り着かなかった。「2018年版」の映像は、室内に展示されている「資料」の映像とリンクしている。「資料版」の方はモノクロの民俗学的な記録映像で、写っている人たちは、動作がみんな自然で滑らかである。雪国にまだたくさん人が住んでいた頃、老若男女みんなで、当時はまだ分厚く張られた広い川の氷を使って、大きくて立派な氷橋を作る。そしてその氷橋の完成を大勢の人々が万歳をしながら素直に喜んでいた。
「2018年版」の映像は、民俗学的な資料映像である「資料版」を脚本として、現在の環境でソーシャルエンゲージ的なアプローチを用い、演劇的な演出をもって現代の人々によって再演されたもの、という事になる。とても今時の美術的アプローチで作られた映像作品だ。作品を、このようにわざわざ言及するのは、ロマンスの定義に反する行為だろう。
どちらの映像も4分弱の映像で、場面構成は同じになっている。「2018年版」の終盤に、全編が屋外で撮影されている「資料編」にはないシーンがある。体育館の様な広い室内に老人が並び、テープを手に持って空間を移動する。すると人が出港する船の様に、持っているテープがのびていくという場面があった。そこだけが、唐突な創作が混ざっている様で不思議に思う。しかし、「資料編」に戻るとそのシーンは、出来上がった大きな氷橋の上を、通学のためにたくさんの子供たちが元気よく歩いているシーンだった。当時の子ども達は、現在の姿で再び子ども達になって描かれていた。最も詩的な場面に、いつの間にか溶けてなくなってしまった様に、主題である氷は映っていなかった。それと同時に、終始無音である映像に、とても豊富な言葉が溢れ出し、流れ漂い始める。
歴史や土地や過去もしくは現在の時を閉じ込めた氷や化石は、作品を通してタイムカプセルとしての機能的側面を増幅させる。鑑賞者は、現代語に翻訳された、語られない言葉に耳を傾けようとする。語るべき言葉も聞きたくない言葉も全部が混ざり、残っていく。