「終わり」という出来事は、それ自体でやってくるのか、私たちが掴み取るのか、それとも誰かに押し付けられるのか、わからないけれど、とにかくそれはひとつの名詞である。時空間上の点のようなものに見えるが、しかし、それは何かのプロセスのようにも思われる。
だいたいにおいて、「終わり」の次には「始まり」が控えている。卒業の次には入学があり、別れの後には出会いがある、きっと。それらはたいてい連続していて、ほとんど表裏一体のようなものなので、この「終わり」だけをまじまじと観察することは案外むずかしい。私たちはいつも「始まり」に急かされるまま、「終わり」を掻き消すようにして通り過ぎてしまうように思う。淡々とした制度の中で他律的に終わってしまうものではなくて、自分から、何かを終わらせること。それは獣を殺すように、力ずくであることもあるし、ただ吸いかけの煙草を水に落とすみたいに、あっけなく済まされることもある。何れにしても、次に来る「始まり」を閉ざしたまま、この「終わり」だけを貪ることはできるだろうか。そんなことに、私たちは耐えられるだろうか。始まりのない終わり──それはとても恐ろしいように思う。それだけに、悲しくも美しいのかもしれない。轟々と歌い上げられる「第九」が駆動させるのは、加速度的な終わりへの到達であり、いかなる始まりに脇目も振らず、ただ終わることそれ自体に向かっていくことなのだ。すべてを集約し、飾り立て、結晶化する。後に何が残るのか、ということを問うてはいけない。ただそれは「終わり」でしかないのだから。
倉田翠と松尾恵美の二人が、一人ずつ舞台に現れる。倉田が椅子に座り、自分で自分の頬を思い切り叩く、何度も、何度も。そして始まる。舞台上で行われる振り付けは、すべて倉田の過去作品からの引用であるという。時々、舞台の右奥に過去作品の映像が流れ、舞台上の動きとシンクロする。一連の振り付けが、何度も何度も繰り返される。一人だけが踊ったり、二人でピッタリ息を合わせたり、ずれていったりする。同じ動きを、繰り返す。擦り切れてしまうまでに、繰り返す。この繰り返しは、どこか、ひとつの生活の「終わり」のために、ダンボールに荷物を詰めていく作業に似ていた。住み慣れた部屋を少しずつ切り崩して、立方体に変換していく。まさにそこに進行形の生活があるのだから、どこから手をつけていいのか途方に暮れる。それでも、これまで脈々と継続してきたこと、身体の内に蓄積してきたものを、改めて手に取ってしばし眺め、そして封をする。長らく開けることもなかった引き出しから、古いものを引っ張り出して、やはりしばし眺め、捨ててしまおうかと考えあぐねる。これまで淡々と繰り返してきたこと、新鮮な意味を失うまでに反復されてきたこと、そういった事実そのものを観察するのである。「終わり」というプロセスとは、もしかすると、反復してきたことを最後にもう一度、反復することなのかもしれない。
繰り返される動き──彼女たちは踊っているのだろうか、それとも、踊らされているのだろうか。その境目が見えなくなるところで、ふと彼女らの身体がダレる。動きを省略し、等閑に、間に合わせの動きをする。そこで、踊る主体と踊りそのものが切り離される。彼女らの身体が動きの型から僅かにずらされる。それらの振り付けの中に蓄積された、地層のようなものが垣間見える。それは、その「終わり」にさえも、かつては「始まり」があったのだということに気づかせる。そして終わる。最後に残るのは、彼女たちが踊っていたという過去形の事実だけである。しかし一番重要なこともまた、その事実だけである。