「Beyond Conceptual / Curatorial」

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眞島竜男 “281” 岡山芸術交流2016 天神山文化プラザでの展示風景 © Okayama Art Summit 2016 Photo : Yasushi Ichikawa。

 
 
遠藤:話も尽きず、申し訳ありませんが、そろそろ時間になりました。これは僕らの飲み会の発話も録音して後日公開すればいいのかもしれない(笑)。会場からの声もお聞きしたいと思います。どなたか、はい。

会場1:面白いお話ありがとうございました。えっと、あと3時間ぐらいあったらいいなと思いながら聞いていました(笑)。

田中さんのグロイスの話にあえて乗っかると、田中さんがおっしゃるようにグロイスは結論は面白くないんですけれども、ある種徹底的にそれぞれの職業を担っている人間は、それぞれの職業を絶対的に全力で頑張っているという前提があると思います。つまりアーティストは展覧会、美術館の中で色んな技術を好き放題発動できる主権を全面化することに全力になり、キュレーターはそこに公共性を加味することに全力になり、必然的にそこでバトルが起きて政治性が発動し、インスタレーション=展覧会という状況が出来上がるはずだから僕はそれを分析する、という話だと思います。

今日の話で、遠藤さんがこういう会を立ち上げたのは、しかし我々は全員、それを全力でできてはいないのではないかというお話ではないかと。つまり、築けていない技術、既存の技術の踏襲みたいなもの、あるいはキュレーターとアーティストの人間関係の状態の中で、ちょっとこれは譲ろうかなとか、今日の話にもあったように、全部、竹久さんの仕事を取っちゃってもよかったと思います。結局は技術の怠慢みたいなところが、実はキュレーター対アーティストというよりも、もっと大きなドロドロとした別の権力みたいなところにうまいこと回収されてるようなことを危惧しているんじゃないかなという気がしました。

ここからが質問なんですけれども、前半の髙橋さんの展示のお話で、震災の写真を展示されていて、これはもはや誰にとっても何の写真か分からないという話を僕は面白いと思っています。当事者とか非当事者とかも全部フラットになってしまって、当事者すらそれが何だか分からない、撮った人すらなんで撮ったか覚えていない、これは単純にマテリアルの話だと思いますが、技術としてよく分からない技術を明確に自覚した上で導入するとすごく楽しい展覧会になるんじゃないかなと思いました。
田中さんの展示でもいくつか感じてご質問したことがありますが、なんでここにあるんですかみたいな、それは明らかに自覚をしてやってるけれども何かに接続しているようには思えないみたいなということに可能性を感じました。

遠藤:正しい指摘でしたね、確かに僕らに濁りがあるんでしょうね。

眞島:濁り自体を技術化するということはあるんですか。髙橋さんの話って、そういうことを言っているのでは。

髙橋:ああ、そうですね。濁り自体を技術化するための具体的な方策を自分が持ってるかということですか。

でも僕は、兵庫の展示は言い訳みたいですけれども、ああいう形式の展示は初めてで、つまりいつもはシングルスクリーンで映像映してテキストを出すという、場所との関係の中でものを単純に置くとかということでやっていたので、技術蓄積はまだこれからというのが正直なところです。

眞島:田中さんの展示でもキュレーターとの妥協、という言葉がいいのかどうか分からないけれども、それも民主的なものに組み込まれているとするなら、妥協を乗り越えつつ半ば取り込み、半ば飛び越えるようなかたちで汎技術化するみたいなこともやってるのかな、と思いました。それは落ち着かないことだし、気持ち悪いところもあるから、私はそれを避けてパイプと表情に逃げたのかもしれません(笑)。

髙橋:その濁りみたいなものは、態度とか展示技術だけに現れるものではないと思っていて、特に僕や田中さんの展示は、映像が果たす役割が大きいし。濁りの匂いみたいなものが映像作品にあるとすれば、編集段階で技術が駆使されていると言えるかなと。

田中:確かに徹底されていないこと、それが(展覧会)制作の中には必ずあって、濁りや妥協となるんだろうけど、その技術化されえない、明文化しにくいこと、余剰みたいなものは、観客にはいびつさとして伝わっていて、でもそこが良さやおもしろさにも繋がる。

どのくらいの塩梅でキュレーターとの妥協があったかということを考えるのはおもしろいかもね。濁りの顕在化と技術化。途中で面倒に感じて、まあいいかって受け入れる瞬間もあって、そこに判断の核があったりもするしね。

遠藤:わかりました。では他のご質問は。

会場2:海外でアーティスト活動と、時々キュレーションみたいなことをやっています。海外の美術館などで展示をやるときはキュレーターってアーティストと同じくらいの大きさで名前が出ていますが、日本の公立の美術館の展覧会はキュレーターの名前がドーンと出たところをあまり見たことがないような気がしていて、それはやはり地方公務員という制約があるからなのかなと。たとえば、キュレーターが30%関わったとしたら、名前が30%の大きさにするとか、もっと遊べないのかなと、そういう点について、アーティスト側の方とキュレーター側の方のご意見をお聞かせいただきたいです。

田中:今日全然話してないことですが、インディペンデント・キュレーターと美術館付きのキュレーターは立場がかなり違いますよね。インディペンデント・キュレーターの場合は、その人が企画したということが大きく表にでます。責任の表明でもある。
水戸芸術館はわりとキュレーターの名前は出す方です。美術館の中でも違いはあります。おっしゃるように、例えば東京都現代美術館はその人が企画した展覧会のオープニングでさえもキュレーターはあいさつをする場がない。全体的に名前を出さない傾向にありますね。

遠藤:僕は名前を出さないと生きていけないので、作家よりも大きかったりすることはあります。でも今の話だと、ハウスキュレーターの方はそこまで技術革新する必要がなくて、確定している公共の中で、それでも足りないところはあるから、過去の作品をしっかりと見せるなり回顧展をするなり、やることは多い。現代美術のグループ展をするときもそんなにめちゃめちゃ技術開発をする必要はなくて、一般の方たちに現代美術のことをもっとよく知ってもらおうとする時は作家的なキュレーションは発生しないです。それが恥ずかしいみたいな話にはならないですよね。こういう美術館のケースはあんまり批判しなくてもいいかな、今現在から過去までの間にやるべきことはたくさんあり、既存の技術の範囲内でもまだまだやりがいはある。もちろん新しい技術開発も可能でしょう。それこそアーカイビングとコレクションの技術です。しかし、そういった技術と現代美術のキュレーターが発揮するべき技術は、やはり違うと思います。後者の方は、名前を出した方がいい。というのは、そこでは明確に美学的・政治的責任が追求されるべきだからです。責任追求って、みんなネガティブに捉えますけど、要はちゃんとコール&レスポンスが準備されているべき、と思っています。
他にご意見ありますか。

会場3:僕は、リサーチャーで数学家です。話が本質的に変わるかもしれませんが、リサーチャーという立場は、今の話のアーティストとキュレーターの関係でいうとアーティストだと思います。また、キュレーターとしての役割も社会的責任として与えられていると思います。でも実際にそれってできていないわけです。新しい形の、サイエンスのキュレーターというのはあったりするのでしょうか。例えば最近、どこの研究所かは忘れましたが、研究所で書いていた黒板を写真に撮って作品として展示するということがあったそうです。つまり、リサーチとキュレーションの関係って今はどうなっているのかなと思って。

眞島:アーティストがするリサーチとキュレーターがするリサーチは違う、ということですか。

遠藤:例えば、キュレーターだったら、桃太郎の本をなるべく全部並べますよね。選ばずに。恣意性を排して。

眞島:黒板の話の内容があまりよく分かっていないのですが、アーティストがするリサーチと数学分野でのリサーチは大きく違うだろうと思います。私が言うリサーチは、自分のなかにいったん通すくらいの意味ですね。とにかくいろいろなものを自分のなかに通していく。それで、そこに起きたこと全体をフィルターにかけてコンセプチュアライズし、最終的に作品化する、というやり方です。向かう方向はおおよそ決まっているけれど、出力の仕方はいろいろありうる。岡山ではスタティックにまとめたけれど、ポリリズミックにすることもできる。キュレーターがリサーチする場合、作品化に向かう必要はないし、リサーチの結果あがってきたさまざまな事柄をコンセプチュアルに構成しなおす必要もない、というところが違うのかな。ちゃんとした回答になっていないかもしれませんが。

会場4:いま、コンセプトであったりポリティクスであったり、役割であったりという質問があったので、もう少し戻りたいと思っています。3人あるいは遠藤さんも含め、やっぱり作品とかアーティストとしてだけでなく、そこにある程度キュレーションの技術とか役割というのは必然的に入って来てるんだよということで、今日のお話を聞かせていただきました。髙橋さんの展示だったら、カッティングシートの件など作品としてなら見えなくてもいいところをキュレーションしている立場があったかなと、田中さんに関しては観客に強制的に観させないというところを徹底させていたかなと思ってまして、あと眞島さんはプロセスを見せないというところが大きかったと思います。展覧会というものをベースに見させていただいたのは、田中さんで、作品というところでは髙橋さん、あと作家という立場では眞島さんでした。

最後の細かい技術のところでお聞きしたいところがあって、髙橋さんの例のプロジェクション、あそこの問題はとても大きいと思っていて、ああいう風に通常のものとは違う方法で、映像とは切り離した状態で見せるという時に、見せている技術というのは独立するかどうか。

あの展示の仕方というのが作家の作品にとって必然的だったとかというところだったら眞島さんのような作家としての立場から捉えられるかなと思っていて、もし、田中さんの展覧会の立場だったら、観る人にとってどうだったか、から捉えられるかなと。

ただ作品として考えたときに、割と曖昧にしている状態、映像の中の状態と展示しているものというのは曖昧に作品になっていたところがあって成立していたと思います。それが遠藤さんの立場からすると切り離して考えたいときに、許せないとか、強い言葉でおっしゃられたと思います。そこの無自覚さというところが、今回面白いところだと思っていて、例えば展示で、他の映像なり、あるいは、他の人の展示を自分がしなくてはいけなくなったという立場を設定したときに、ああいう見せ方をするかどうかをお伺いしたいです。

髙橋:これまでの作品では映像の内容と投影する素材との関係は割と結ばれていました。例えば2014年に京都芸術センターで個展を行いました。廃校になった僕の母校(小学校)の現在の姿を捉えたドキュメント映像の作品です。同じく京都芸術センターも小学校跡地で、60個程レンガ状に積んだ学習机に映像を投影し、学習机とセットになった椅子に座らせて映像を鑑賞してもらいました。自分自身の個人の経験を、似ているけれど違う状況で見せることによって、追体験とも違う、代入していくというようなことをやりたかったんです。愛知県岡崎市での展示では、展示会場の歴史がモチーフとなっているため、映像はロケ場所にそのまま投影したり、そういうことをやってるんですよね。なので撮ったものと投影するものが不可分にあるということは元々やってきたことで、それが自分の作品の特徴のひとつだと思っています。でも今回は元々切れていたものを結びつける、全く違うものをつき合わせてみたという、そういうことをした。まあ判断として、そこで何が起こっていくのだろうということは、震災と障害という二つの関係がなければ考えられないと思ったんですね。つまり、展覧会全体の構成もそうなんですが、コンクリートの壁にグレーのカッティングシートで文字を書いた作品は、制作過程でいろんな人にリサーチをして聞いた言葉で印象深かったものを抜き出してるんですけれど、あそこには大小異なるサイズの言葉が貼ってあって、その言葉というのは、障害を持った人が発した言葉のようであり、かつ被災の人の言葉にも思えるもの。実際は被災をした人の言葉なんですが、障害と震災、両方に掛かっているような言葉が貼られているんですよね。結構そういう混合というか、どっちにもとれてしまうものが一方にあり、無理やりつないでいるようなことを一方ではしている。それってどうなんだという話ですよね。それが難しいんですよ。

会場4:それぞれ切り離して考えられるのであれば、それは作品となる可能性はあると思います。

髙橋:切り離して考えるのではなく、無理に、強引につなげて考えているということです。つながるところもあるけれども、つながらないところもある。一致や完全代入は無理ですが。自分自身では入っていると思えたとしても、人から見ると全然入っていなくてダメだと判断されることもある。強引な繋ぎ方や代入はかなり暴力的な方法だということは自覚しています。

もうひとつ補足して言うと、僕が作品の中で行っている、人の所作や話し方を真似る、再現するということもかなり暴力的だと思うんですよね。人の経験を自分自身の経験であるかのようにやる。他者の経験をどう受け取っているのか、その態度というか、自分自身の反応自体をそこで表す、ということですね。映像とそれを投影するスクリーンの問題と、この再現の問題は共通しているところがあると思っています。展示の技術ではないけれども。

遠藤:このくらいで終わりたいと思います。今日の話の全体は、非常に細かいところに入りすぎているかもしれません。しかし、ざっくりインスタレーションとか、社会派の作品だとか、人が参加できるやつだとか、そう分けたところで意味はないのです。今日は技術と連呼しすぎているのもどうかなと思いますが、技術論を中心とするとコンセプチュアルリズムとキュレーションの間の線が変わってくる、ブレてくる。そのブレをどのように見極めるか。そのブレがあることこそが、現代美術が社会現実に触れている証左でもあるのです。だからこそ細かくじっくり考えてみようではないかと、そういう会でした。皆様ありがとうございました。

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