遠藤:僕からお三方に質問があるんですけれども、田中さんの話で印象的だったのは、展覧会の配布物にこだわりを持っていらっしゃるところでした。それは単なる解説である以上の価値があるということだと思います。そしてそこでは「技術的にこれは許せない」みたいな技術の方に倫理が宿るというか、技術に美学が宿るということが発生している。この傾向は、お三方にはそれぞれあると思います。具体的に名前を挙げてもらってもいいし、こういうことするからあいつはダメなんだよと言ってもらってもいいんですけど、これは、作家の人格批判でもなく美的批判でもなく、その技術がダメなんだという傾向があれば教えてほしいです。
眞島:田中さんの作品については、かなり複雑な気持ちになりました。たった6日間で何ができるだろうか、というのがまずありますよね。田中さんが「ART iT」の往復書簡か何かで書いていたと思うけれど、参加者たちがそれぞれのコミュニティーを持ち寄ることで、そこに開かれた共同性のようなものが現れる、というのが当初からの目的なのか、それとも結果的にそうなったのかは私には分かりませんが、あの試みはそういうものだったと田中さんが書いていて、それは理解できました。
私が岡山でやったのはたぶん逆で、まずゴールを決めてしまう。具体的には、現代における桃太郎像をポジティブに造形する、というゴールです。リサーチは作品がゴールに辿りつくのをある程度は保証してくれるけれど、内容を保証してくれるわけではない。その結果が変なものになったとしても、それはそれで必然だろうという判断があったんです。田中さんには、時間の設定が技術的または経済的に、どうして6日間である必要があったのかを聞いてみたいですね。
あと、感想になっちゃうけれど、展示を全部観たあとに観客自身もさまざまなもののひとつになる、あるいは非人間化されることで観客が楽になる、ということを田中さんが先ほど言っていたと思うんですけれども、私があの展覧会を観て一番印象に残っているのは、インタビュー映像の中で苦悩している田中さんの表情なんです。この苦悩はどこから来るのか正直私は分からなかったのですが、とても印象に残りました。
田中さんは、徹底的に作者性を排除した結果、それが全面化したんだと言っていましたが、田中功起の作家性に回収されるわけでもない、漂っているわけでもない、そうした作者性のあり方が、あの微妙な表情にあぶり出されていたように思います。それは、想定されていたことなのか、あのインタビューを展示に組み込むことが、全体のバランスや偏りを相対化していく機能を持っていたと思うんですけれども、それ以上の機能を期待されていたのかどうかを聞いてみたいところです。そうしたことも含めて、批判的に観た部分もかなりあったのは確かですね。
一方で、髙橋さんの展示に関しては素朴に面白く観てしまって、逆にそれ以上細かく聞きたいところが今のところそんなにないんです。
田中:前半部分で話した細々したことは展覧会(もしくはExhibition Making)の話であって、撮影を含めたプロジェクトそのものとは性格が違うと思っています。つまり成功が約束されている、と話したのは、展覧会の作り方の方で、6日間のプロジェクトと撮影がどうなるかは、むしろ暗中模索でした。なぜこんな話をするのかというと、僕の中で、展覧会をキュレーションするというモードとプロジェクトを組織するというオーガナイザーのモードは分かれていて、その間で自分は揺れ動いているんですね。あの企画に関しては、実際、プロジェクト全体を1年間、動かしていく中でさまざまな変化があったので、なんというか自分が今までいた場所とは別のフェイズに入ったなって思ったんですね。何かには向かっているんだけど、何に向かっているか、どうなっていくのかはよく分かっていなかった。
一方で、展覧会制作の技術は僕の中である程度蓄積されてきていたので今回はそれを全部使おうと。あらゆる細かいところにキュレーションの工夫があるような、そんな展覧会を考えて、それがいま自分にできる中ではほぼ完璧にできたんですね。
だから今日の話は、展覧会制作の細かな技術の部分しか話していなくて、プロジェクトの内容面に入っていくと、確かにあやふやなところが結構ある。その上で、先程眞島さんが指摘した、僕自身へのインタビューの中での僕の微妙な表情というのは、確かに特異点かもしれない。僕のインタビューはメタ的な視点をどこまでも取り込んでいく今回のような方法においては必要なものです。でも実際の僕へのインタビューはもっと長いんです。その中で、構成上必要なところを使っている。それは僕にしか言えない内容(プロジェクトへの参加を、個人の尊厳への冒涜の恐れからとりやめた参加者について)をしゃべっているところを使ったということです。それ以外のインタビューアーのアンドリュー・マークルさんがぶっこんできた核心的な質問についてのやりとりは使ってません。冗長だと判断しました。目標としては、最終的にあの映像全体を一本にしたいと思っていて、一本化したときに必要ならば使えればいいかなと思ったまま、1年過ぎて何も手をつけてない状態ですけれども。きっと、そのやりとりが入ってくるとまた違う見え方がありえると思います。展覧会の中では、僕の語りは補足的なものでしかない。それでも、その語りの前後で結構いろんなことを聞かれているので、表情にはその複雑さが出ていたのかもしれません。プロジェクトが終わった翌日の朝に撮られたものだし、終わったけれども、まだよくわかっていない、そんな状態でもあったし。
遠藤:田中さんの作者を匿名化するという話は、それが技術的に成功しているかどうかは別にしてとてもよくわかりました。また、眞島さんの桃太郎としてその地に赴き、自分=アーティスト=桃太郎がこの地に立つ、みたいなこともよくわかったんですけれども、僕は髙橋さんのインスタレーションの中の作家性が意外と微妙だなという気がしたんですね。自分でテキストを入れる感じとか、作家性的なるものを出していくことと、既に障害を持った人がいらっしゃる、被災者がいらっしゃるという現実と、お客さんがするだろう経験、そのバランスの中で、作家性が決定されていくと思うんですけれども。どこまで作家性を出そうとしたのか、あるいは若干否定する欲望があったのか、ですよね。そこが聞いてみたいところです。
髙橋:そうですね。やや極端に言うと作家性を全面に出さないという選択は無いなと思っていて、撮影しているのは僕自身だし、実際にインタビューしているのも僕自身だし、声や動作でぎこちない再現をしているのも僕自身だし、僕自身の関わりが形となり現れていると思っているんです。再現や改変のやり方、程度も含めて。それにはかなり意識的でした。「作家としてどういう態度でその人たちに関わっているんですか」という問いの中で、躊躇する自分の態度や、誤解をもって見られてしまう現実も覚悟のうえ、向き合い方を態度として示し作品化していこうと考えていました。
それは作っている最中も、今も同じ気持ちです。だから作家性というよりは、作家性と言っていいのかな、それぞれの個のあり方をドキュメントしていってるときに、反応している僕自身がドキュメントとして記録されていけばいいやと。そういうことで作品というものに作家としての態度というものが見えるんじゃないかと。
遠藤:僕の理解では、それぞれの障害者の方と個人的に知り合ったその距離感、あるいは、被災者ではない自分と災害との距離感、過去のマテリアル、アーカイブとどういう風に付き合うのかという距離感、それぞれの案配は全部髙橋さんが決定していて、その限りにおいては全てのリサーチとアウトプットはコントロールされていますよね。
髙橋:そうです。
遠藤:その限りにおいては、作品の形態は発生していなくて、いろんなことを学んで、いろんな障害者の人がいて、被災のことを知って、ということですよね。全て髙橋さんしかできない経験を髙橋さんだけがしていて、そこで感じた面白さや違和感は髙橋さんだけのものですよね。その上でそれを展示にするときに、人にわかってもらえるはずだというときに駆使された技術があの形態をとっているということですよね。
髙橋:はい。
遠藤:そこで髙橋さんの場合それは一枚の絵になることでもなく、彫刻にすることでもなく、ああいう形態になった。しかしそれは、私的なものがキュレーションの範囲に踏み込んできた、という印象を僕に与えました。
これは基本的には自然な話であって、アーティストがキュレーターの技術を獲得した方が説明がもっと楽になる。チラシが作れるとか、自己解説するとか、導線をコントロールするとか。しかし髙橋さんの兵庫での展示は、同じ技術体系を駆使している田中さんの展覧会とはちょっと違うなという認識を僕は持ちました。
髙橋:そうですね。
遠藤:田中さんの場合は自分もキュレーターも、もろともすべて等価にしてやるぞという徹底した平板化、良く言えばラディカルな民主主義においてああいった形態になっている。事態が全面化している。作品かキュレーションかという二分化の議論を超えて、もはや技術的なものが全体を支配している。
髙橋:田中さんの話を聞けば聞くほど、僕はそこまで徹底していないということが分かるというか、キュレーターとの協働のあり方にに関しても、隅々まで徹底してやり取りしたい気持ちもあるにはあるけど、自分の判断を信じきれているかというとそうでもなく、担当学芸員に判断を一部委託しているところがあるんです。もちろん最終的には協議の上で展覧会が出来上がりますが、今回に関しては企画の割と早い段階でデザインに対してもキュレーションに対しても、ある部分に関しては信頼の上でアウトソーシングがありました。具体的に作品の細部や展示に関しては、プロジェクターは何を選定するか、どの位置に置いてどう設えるか、設営業者に壁をどう作ってもらうか、でもこれは自分で作る、とか、そういう判断がひとつずつかなり細かくありました。写真を置くボードの設計は活動を長く見てくれている木工職人の弟に発注したり、信頼できる写真家に色合わせを含めたプリントの発注をしたり、細かく判断しました。
田中:なんかでも、展示構成にはいろいろな工夫があって、プロジェクションは別々の素材に投影されているとか、地面には写真パネルがたくさんあるから注意して歩かなければならない感覚とか、そうした工夫は面白いと思ったのですけれども、でもひとつ気になったことがあって、自由に動き回って観られるのになぜか椅子は一カ所に集められていたじゃないですか。
髙橋:はい。なかなか厳しいところを突いてきますね(笑)。
田中:一カ所に椅子が集められて、三面の映像をそれぞれに見るように配置されている。座るとひとつの方向を向くような椅子の配置がとても窮屈に感じました。会場の中を不安定に歩きながらそれぞれの映像を断片的に見ながら空間全体を経験していたのに、椅子があることで、「ここから見て」という意図が見えてきて、実際そこに座っている人が多かったし、経験の幅が縮減されていると思った。「この椅子はこの映像を観るためだけに置かれている」と思った瞬間、視点が固定化されるというか。
髙橋:展示室の中の他の物は複数の機能をもっているのに対し、椅子は椅子としてしか機能していなかったということですよね。それが象徴的だったと。
田中:仮に椅子がなかったとしたらどうだったかとか、この椅子を持って歩いたらどうだったろうかとか、結構そういうことを考えてしまって。この髙橋さんのプロジェクトは、誰かの視点を作品を介して共有するというものだったと思うので、展示方法においても視点を複数化させる方があっていたんじゃないかなと。一点そこだけもったいないと思いました。
髙橋:よくわかります。実は展覧会の搬入中に椅子の扱いの判断がついていなくて、長尺の映像をどう見せるかという話から、写真はキャスターがついてて動かすことができるので、車椅子の人が来たらこれは動かすことにしようとか、そういう判断があったんです。同時に30分程の映像(計3点ある映像)もやはり見てほしいよねということで、椅子を置くかどうか、どのくらいの数を設置するか、どこに置くか等の判断が確定しないまま展覧会が進んでいったということはありました。
遠藤:僕、少し厳しく言いますけど、とても細かい技術的ポイントにめちゃくちゃ腹が立ったんです。椅子とかは何も思わなかったんですけれども、スクリーンがダンボールと毛布と紙なんですよね。それからプロジェクターを隠している箱の下にあるのがペットボトルの水と懐中電灯と缶詰で。僕はそのコンビネーションの「ベタさ」に反感を持ちました(笑)。言い過ぎかな。
髙橋:別に言い過ぎではないです。
遠藤:何故かということをちょっと考えたんだけど、他の映像作品や写真作品はコンセプチュアリズムと作家性と過去の事象と現在の事象と、自分とこれを見るお客さんとを複雑に縫い合わせていくようなコンセプトで現れているのではないかと思ったんですけれども、具体的に震災をメンションする段になって、極めて凡庸な震災の形象が導入されている。しかもそれが提示されているのは、普通はキュレーター以前の施工業者が匿名性のうちに遂行する部分である。つまりスクリーンをちゃんと「可視化されないように」設置しておくとか、プロジェクターを隠しておくといった部分。その不可視な労働を展示の一要素として持ち込むのであれば、それなりの覚悟が必要だと僕は思うんです。しかし、作品全体が持っているある種の繊細さからは断絶された、非常に安直な「震災的なるもの」がそこにあった。そのようにキュレーションの技術が使われているということに腹が立ったんです。本当に細かいですけれどもね。
髙橋:いえいえ、それについては自覚してやっています。これを見れば震災を思い起こすだろうというものがモロに置かれていることは、分からずにやっているわけではないですよ。過剰にやっているなという自覚もある。つまり、こんなの見る人が見たらすぐ分かるじゃんと。会場で鑑賞者にアンケートを書いてもらえるのですが、その中で印象に残ったのは、震災の経験と、障害をもって街を歩く経験がどう具体的に関係しているんだよという話でした。「震災と障害、しかもそれぞれ個体差があり個別的な問題なのに、それらを無理やり接ぎ木し、つなぐのって問題あるんじゃないの」という話で。僕の展示の発想もそこから始まっているけれども、その接ぎ切れなさ、みたいなものを態度として表したかったというか、表さざるを得なかったというのがある。時間がたって考えてみると。
だから「これを使ったら震災と分かるだろう」というような単純な使い方ではない。むしろそれらを使って強引につなぐことによって、観客それぞれの経験や感情を発動させることができるんじゃないかと。例えば僕のやり方が失敗であったり苛立たさせることだったとしてもそれはポジティブに受け取っています。そういうことを考えていました。