何度か、会場を去ろうとしてまた引き返し見つめるのを繰り返した。街の何気ない一角の風景が、輪郭だけの線画になっている。それも真っ白な切り絵にされ、ギャラリーの白い壁に貼られている。一見会場には何も無いように見える。しかし見る角度や位置を変えながらじっと見つめているうちに、紙に反射した光や、一部だけ剥がれて壁に映った影を発見し、「そこに何かがある」ということだけで感嘆してしまった。線があることに気付いてからも、しばらく(またはいつまで経っても)そこに何が描かれているか把握するのは難しい。観葉植物が置いてあるベランダや、道路標識など、特定の場所でなくても見られる「凡庸」な景色。その部分部分を切り取ってコラージュ的に貼り付けてあるからだ。しかしわかった瞬間には、脳にその情景が鮮やかに映し出され、鮮烈な感覚を覚えた。思い出せないものを思い出した時の、一筋の光が差し込むような感覚。作品自体以上にその体験に感動した。そこまで含めて作品の意図だったのかもしれない。
慣れ親しんだ街に、「テナント募集」や「売り物件」の張り紙が増えた。前を何度も通っていた店なのに、看板がなくなればそこが何の店だったのか思い出せない。大切な場所のことは難なく覚えられても、街角で数知れず出くわす興味ないものまで覚えていられるほど、生活に余裕はない。展示会場から出ようとするたび引き返してしまったのは、白い切り絵の隅
々まで観ることができたのか、もっと気付けるものがあったのではないか、もう一度確かめたくなるからだ。さながら、意識もせず消したエアコンの電源を本当に消したか不安になるように。
いつかなくなってしまうあらゆるものに対して、そして忘れるという行為に対して、どう対処していくのか。他のことは忘れたとしても覚えている輝かしい断片を、どれだけコレクションしておくことができるのか。記憶を鮮やかに彩るためにも、その場その場でどれだけ主体的に、興味をもって体験することができるのか……。もう存在しない風景、いつかなくなってしまうであろう風景を描いた展示。見つめながら、これからの行動とその心持ちについて考えていた。