「人工物――真鍮の棒と、自然物――植物の種では、どちらが人に親しいのだろうか」。
この展示を見てまず考えた疑問だ。生物であるという点では、植物のほうが私に近いだろう。しかし様々な形の種子やその殻が、真鍮で作られた緩やかな曲線・直線で繋げられた作品たちを見た時、私の視線が最初に興味をもって捉えたのは、人の手で作られた真鍮の棒の方だった。太さを変えることも複雑に曲りくねることもないシンプルなデザインは、工業製品に囲まれる生活に慣れた私にとってとっつきやすい。それから、作品の主素材である種子たちへ関心が移動した。真鍮の描く線は植物の茎のようにも見える。数ある作品のどれをとってもいつまでも見ていられるように思うのは、種子の位置や真鍮の描く線が調和するように考えられているからだろう。
作品に取り込まれた種子たちの中には見たことのないものも散見されたが、子どもの頃公園で拾った覚えがある棘を伸ばした木の実や、甘い煮物として食べている豆など、馴染みのものもあった。しかし眺めていて、種子の姿形なんて今まで気にもとめていなかったことを思い知らされた。その奇妙な形状や、美しい色艶に見とれたのは、作品から他の要素を排し、
真鍮の線だけが脇役に添えられたことで、種子たちの控えめでときに奇天烈な個性が際立たされたおかげだ。ほんの何十年前までの人々には、もっと身近で、興味深い存在だったのかもしれない。それが今は、芸術にならないと見向きもしなくなってしまった。
近しい隣人であったはずの、もはや遠い存在との再会。その後、固くしぼんだ蓮の実を見て、「どのようにしてこの形状に至ったか」について想像が動き出した。
実が萎む。種が落ちる。種が膨らむ。花びらが落ちる。受粉する……映像を早戻しするように、頭の中で種たちの歴史が逆順に根を伸ばしていく。種子の過去に思いを馳せたのは、種を貫き、太さを変えずにはしる真鍮が、時間を想起させたからに違いない。そして過去を想像することで、それまで見向きもしていなかった存在が「興味の尽きない他者」へと変貌していった。
真鍮の進行方向を未来と考えれば、種子達のこれからが芽を伸ばし始める。種が植物の始点でも、結果でも、悠久の時間の一時点でもあることが実感できた。
豊かな時間を過ごせた要因として、空間作りから徹底的にこだわられた展示であったということも忘れてはならない。比較的小さな作品が集められたテーブルの上は、風にそよぐ草原のようにも、似て非なる個人の集まりのようにも見えた。それら一つ一つとの、視線と考察による対話を楽しめた。