東京渋谷区にあるシアターコクーンという劇場は、新型コロナウイルス感染拡大の影響により約4ヶ月休館した。そして再開後初の作品は、劇作家岸田國士「恋愛恐怖病」の戯曲を主軸に構成された舞台だった。それはライブ配信を前提として制作され、2020年7月12日に上演し、7月31日から9月2日までオンデマンド配信された。
コロナ禍で状況が要求した演劇の配信という手法は、新しい演劇を産み出しうるのか、それとも映像という規格に落とし込まれた演劇なのか。
冒頭、映像に映るのは、薄暗い空間に見たことのない機械が並び、稼働している光景とその場所に響く音だった。それは劇場、つまり建物だ。劇場の客席に座っていては到底観る機会のない、舞台の裏側に配置されたあらゆる劇場の通路を捉え、劇場にすら訪れていない者対して見せていく。「神は細部に宿る」というかのように、移動するカメラの視線は、目の前にあるものを切り取るのではなく、出来うる限り映し出す。
次に、男がひとり登場する。男が発する言葉は戯曲の台詞の断片である。コラージュされた台詞と同時に、男が彷徨う光景が映る。場所は引き続き劇場の裏側だが、空間だけでなくカメラに接近した被写体を伴う長回しによる移動の過程は、時間と空間の継続した連なりのはずなのに、断片の羅列を見ているようだった。そのため、男の発する言葉が戯曲の台詞を再構成し直したものであることは、この映像に相応しく思える。そして映像は、建物の裏側から、別の裏側へと移行していく。舞台上には現れない人々、劇場で働くスタッフが次々と画面に現れはじめ、平然と仕事に取り掛かる。彼らは本来表には現れることがない裏方のスタッフだ。つまり、これら一連の映像に、舞台の準備という日常の風景が、演出として組み込まれている。それは在るにもかかわらず観客が見ることのない、もう1つの裏側を映し出している。
表舞台の登場人物は、最初の男に加え、女、男の影の演者と増える。音楽というには押し付けがましくない、音の演奏が鳴り出す。
そして、続く本編、岸田國士の戯曲「恋愛恐怖病」の舞台が始まる。
この作品は、演出方法において、従来の芸術におけるサイトスペシフィック的な手法を取り入れており、その効果が、演劇と映像どちらの技術的側面にも相互作用し存分に活かされていた。
動かない場所である建物、隠れた舞台装置、裏方で働く役者以外の人々。これらは普段の演劇では観ることができない。しかし、演出の妙である。撮影の技術を生かし、役者、音楽、戯曲といった舞台における本来の芸術性に加え、劇場環境や、舞台を下支えする日常性が対等に扱われるだけでなく、さらにそれらの要素を取り込み、包括することすらも、芸術的側面を持ちうる演出となっている。
裏側を見せることは、この作品の意図だ。そして、その意図には二重の構造がある。1つは、この作品の媒体が映像であること。そしてもう1つは、この作品は新型コロナウィルス感染拡大の影響による4ヶ月休館した劇場の再開がテーマに含まれていることだ。劇場で演劇を作るとはどういうことか。映像で提示されているのは、演劇は舞台の表に立つ役者だけでなく、劇場という大掛かりな装置を持つ建物、そこで働く多くの人々がいることを明示している。場所を機能させている。先程記述した、本編が始まる前の冒頭部分は、コロナ禍の社会的状況を踏まえて要求された配信という制約を逆手にとり、映像というメディアであるからこそ可能な創造的演出と巧みな撮影技術が駆使され、新鮮な「演劇」作品が実現され、興奮するほどの純粋な喜びと満足をもたらす。
と同時に、冷静に頭を過るのは、コロナ禍に於いて議論された、演劇界の経済的支援要請に対するものだった。それは不要不急の行動変容に従い、上演の休業という形で社会に協力し、経済的に打撃を受けた演劇業界に関する補償支援を求める議論のことだ。その議論は、劇場を芸術、文化的施設というある種特権的な隔離された認識を持つ場所から、コロナ禍において影響をうけた、その他の多くの社会的問題を含む現場の1つとなった事を示していた。
そのため、社会問題としての議論の前提として持たれるべき共通認識、劇場や演劇がどの様な現場であり、どの様に関係者が関わり、成り立っているかを提示するには、言葉を尽くして議論をするよりも、この作品を鑑賞した方が理解に易いのではないか、という感想が作品を観ながら生じたのだ。なぜならこの作品には、芸術的側面と、いわゆる生産的側面が同居しているからだ。また、その観点をこの作品は敢えて取り入れていると思われる。そして、その2つの側面を巧みに作品として落とし込んだのは、構成、演出を担当した梅田哲也氏だろう。それは、梅田氏の従来からの作品制作の特徴である、その場所の持つサイトスペシフィックな要素を作品に取り入れる手法が大きく生かされている。それは劇場という場所の、芸術作品を生み出す演劇や舞台自体が、コロナ禍によって社会性を帯びてしまったことで、場所や環境の持つ社会性を含んだ特性を生かして、しかし、ただ社会性を強調するだけにはとどまらない独自の作品へと変換する、梅田氏のその手法の対象となってしまった、というトートロジー的な効果でもある。
しかし、梅田哲也氏のその制作手法について改めて考えると、社会のあらゆる側面が一斉にこれだけ変化し、また、抱えてる社会問題の細部や差異に注目する機会となっている現在において、変化の前後で手法の持つ役割は一貫していたという発見でもある。そしてむしろ、今の社会現状は、目の前にある社会に対して敏感に反応し、柔軟に作品に取り込んできた手法にとって、最も親和性のある状況なのではないかとすら思う。
私はこの作品を京都市の自宅で、ライブ配信ではなくオンデマンド配信として観た。このレビューの公募規定は鑑賞者の立場からの「京都市内で見た展覧会のレビュー」ということになっている。「京都市内で公開された」作品、とはなっていない。(過去の採用レビューには展覧会ではなく舞台作品もある。)もちろんこれまでであれば、このような揚げ足をとるような事をするつもりはない。ただ、移動の自由が制限されたコロナ禍では、鑑賞者にとっても場所が持つ意味や距離、手段が変容せざるを得ない。だからあえてこの作品を選ぶ。もしこの作品を、通常通り京都のどこかの劇場で見た場合(それはこの作品の演出上あり得ないが)、配信での鑑賞とは全く異なった臨場感を味わうことになっただろう。映像を家で見る行為自体は、従来からの鑑賞手段である。鑑賞方法の新しい選択肢が増えたわけではない。しかしその中で明らかなのは、この作品に対する新しい感動とそれに伴う考察が存在していたことだ。この鑑賞経験は、今後の舞台や芸術作品の鑑賞において、従来の対面型、または配信形式にかかわらず、影響をもたらす重要な経験となるだろう。