Ghost(文化庁メディア芸術祭京都展)を見にいった。チャーミングな表現はいろいろあったけれど、圧倒されたのは高嶺格の作品だった。
朝から一日中、女性による詩の朗読が続く。金子光晴、茨木のり子、原民喜、与謝野晶子、草野心平、石垣りん……彼女の声が空間に均等に満ちて伝わる。ふわふわ揺れるオブジェに囲まれた、白いドレスの、白い椅子に腰掛けた読み手。朗読というシンプルなモチーフ、スタティックな場。女性は適宜交代するし、朗読の途中でゆっくり水を飲んだりもするけれど、パフォーマンスというよりは高画質のビデオインスタレーションを見るようだ。単純に気持ちがいい。
でも、ちょっと釈然としない。なぜこの作品が文化庁メディア芸術祭に出展されているのか。カンニングするような気持ちで、受付嬢に渡された作品解説のプリントに目を走らせる。照明、音響、そして図書館などの他に、エンジニアリング、システム・デザイン、CGなどのクレジットが。んん、どこかにCG使われているっけ? 入口から出口まで一方通行の順路が示されているが、入ってきてチラっと見ただけで引き返し、出ていく人もいる。私は、順路に従って移動すると……ああ、いま朗読している彼女がここに! 素敵な種明かし。海を漂いながら詩をよんでるみたいで美しい! 生身の朗読と、その後に配されたメディアアート。私はすっかり腑に落ちて、満足して出口へ向かう。暗い劇場からホワイエへ。
いきなり後頭部を鈍器で殴られたようなショックを受けた。そこに展示されてあるステートメントを読んで初めて気づく。劇場で心地よく眺めていた表現の元は「テレビのニュースでやってたこと」じゃないか! なんで気づかなかったんだろう? 呑気に「きれいなアート」を楽しんでいた自分の迂闊さが歯がゆい。なぜ思い出さなかったんだろう? 高嶺氏の作品には、たびたびこうした仕掛けがあって、無邪気に鑑賞していると急に足をすくわれて心をえぐられるってことを
ステートメントに記されていた作家と妻のやりとり(彼の奥さんは朝鮮半島にルーツがあると私は知っている)は、このようなものだったーー妻が、花を手向けにいきたいと言うのを聞いて、はっとした。あそこに花を、なんてことを自分は全く思いつかなかった。
私が味わったショックは、作家本人が体験した心の動きをトレースしたものだったのだ。美しい表現を無心に鑑賞するのは幸せなことだ。その幸せは奪われちゃいけない。けれど、そこから遠く離れてみえる現実の醜さや、社会の背後に追いやられている他人の痛み、悲しみ、辛さ、などなどを忘れないこと、気づき続けること。自分の中にその二つを重ね合わせてこそ、メディア芸術の体験だと知った。