展示空間の真ん中に巨大な立方体が吊り下げられている。木枠にアクリルをはめ込んでつくられた立方体は二重になっており、内側の小さな立方体にはいくつものスピーカーが内向きに取り付けられている。そのせいで音はこもったように内側に向かい、重低音が空気を震わせている。
それはおそらく、風の音の純粋なサンプリング。寺岡自身のステートメントには次のようにある。
風はどんな音がするのだろう。
そう思っていくら耳を澄ましてみても、
聴こえるのは私の耳の周りで鳴る
風の部分が作り出した音だけで、
私の視界に広がる目に見えぬ
風の造形とは違うものだった。
彼が提示したいのは、彼という認識主体がやむをえず切り取ってしまう風の音の一部分ではない、「全体」であるようだ。まるで非人間的な高みから風の流れを見下ろすようにして捉えられた全体。それは彼なしで、少なくとも彼とは関係なく、存在している風の音そのものである。もちろん、風の音の「全体」を見たり聴いたりすることなんてできない。だからそれを捉えようなんていうのは空想の話、ということになる。
考えてみれば、彼はいつも空想の話、「もしも」の話をしているような気がする。それもとても微かな「もしも」の話である。風の音の「全体」の隣に腰掛け、奇妙な心地よさを感じながら、わたしが思い出していたのは、彼が2015年におこなった「Blanket and dog」の個展のことだった。この作品の話になると彼は、あの頃はちょっと、迷走中だったんですよ、なんて言って躱すように笑った。
「ブランケットと犬」と「風」に通底しているのは、この世界がとても限られていることへの悲しみであるように思う。悲しみというと大げさだ。なんというか、少しだけ離れたところから眺めているような冷んやりした視点。私たちの正常な認識においては、原則として、あらゆる可能性の中から偶々選び取られた一側面だけが「現実」という特権的な地位を得て中心に据えられる。(それは、耳がやむをえず切り取ってしまっている風の音だったり、「それは毛布であって犬ではない」という認識だったりする。)しかしこの世界の「現実」を少し引いたところから眺めてみれば、そのすぐ脇には別様であり得た「準現実」のようなものが平然と隣り合っている。「準現実」。変な言葉かもしれない。それは現実が現実であるために必然的に経るプロセスの中で生じる塵のようなもの、あるいは、物々しい木箱の真ん中にあるべきものをそこに留めるための緩衝材のようなものだと思う。
私たちの耳に届く風の音は、切り取られた一部であり、それは数々の準現実という緩衝材の真ん中に据えられることによって現実たり得ている。彼が提示した風の音の全体は、そんな世界の捉え方を遥かな高みから俯瞰しているような、超越的な感覚がある。そしてそれはどこか、ゆったりとしたソファに深く腰掛けて辺りをぼんやり眺めている感覚に似ている。前かがみになって緊張していた神経を弛緩させる。背もたれに身体を預けるようにわたしを促し、リラックスさせてくれる、そんな気がするのである。