• 2020年09月07日

開催情報

【作家】司修
【期間】2020年9月8日(火)~9月20日(日)
【開館時間】12:00-19:00 (最終日のみ17:00まで)
【休館日等】月曜日
【料金】無料

会場

会場名:ギャラリーヒルゲート
webサイト:http://www.hillgate.jp/
アクセス: 〒604-8081 京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町535
電話番号:075-252-1161

概要

 ぼくが絵を描きだし、前橋から東京へ飛び出て行き、「死んでも絵かきになる」と意気込んでいたころからずっと、「売れるような絵を描いたらダメ」という雰囲気の中で生きた。新聞配達さえ雇ってもらえない時代であった。しかし、「ダメ」をいっている人たちはだいたい小、中、高、大の教員であった。
 それでもぼくががんばれたのは、大野五郎という画家と出会ったことである。貧乏なんてへいちゃらの生活をしていた大野さん家に行くと、「おれはまだまだ甘い」と思った。だが家賃滞納を誤魔化す術もなくなって、田舎へ逃げて行った。けれどあきらめきれず、敷金と二ヶ月分の家賃を懐に再び東京へ出て行った。出版社へいろんな絵の見本を持ち込んだ。家賃滞納半年後に、絵本の仕事が舞い込んだ。絵本も「売れる絵はダメ」のうちに入っていた。「誰も助けてくれないのだから、やるしかない」と腹をくくった。初めての依頼は『ちびくろサンボ』であった。続けて、『みにくいあひるの子』(1965どちらも偕成社)である。堕落の坂を下りていく思いを持ちながら絵本を描いた。その翌年、ここに出品した『サーカスがやってきた』の絵を描いた。とうぜん陰口をきかれるようになったが、ぼくは「おれも生きていかなくては絵を描けない」と怒り狂って絵を描いた。
 そうしているうちに、松谷みよ子さんの『まちんと』(1978偕成社)を頼まれ、ヒロシマの現実を取材するようになり、それまでの考えでは描けないと思うようになった。描けるようになるまで二年かかった。それからぼくの「絵本」は、自由に描く絵と同じく、一生の仕事とするようになった。展示替えした「原爆資料館」ショッピングルームに、「まちんと」があった。描いてよかったなと思った。             
                            司 修
 今回は司先生の絵本のお仕事の中でも日頃目にする機会の少ない作品を展示致します。1966年の『サーカスがやってきた』は絵本の仕事の出発点のひとつとなった貴重な原画でアート紙に油彩で描かれています。DM裏面にある作品たちは1997年から2004年の最終巻まで先生が描かれたJASの機内誌『ARCAS』の表紙絵他です。これらは、デジタルで制作されたものを、ジクレーの技法でed.10の原画としたものです。油彩・水彩・パステル・銅版・木版・CG等の技法を駆使しての絵画の世界。更に、小説や評論などの文筆の仕事も含めて様々な側面をもっておられる「自由な表現者」司修先生。今回はその中の油彩とCGの表現を中心にお楽しみくださいませ。 
ギャラリーヒルゲート
司 修(Tsukasa Osamu)
1936年 群馬県前橋市生まれ。
  中学卒業後、独学で絵を描き始める。
  自由美術協会会員を経て、‘64年主体美術協会の創立に参加
   (‘90年より無所属)
‘76年  『金子光晴全集』の装幀により講談社出版文化賞。
‘78年   『はなのゆびわ』により小学館絵画賞。
‘86年  池田20世紀美術館で〈司修の世界〉展。
‘89年  「バー螺旋のホステス笑子の周辺」が芥川賞候補。
‘93年   「犬」(『影について』所収)で川端康成文学賞。
   日本橋三越他で朝日新聞社主催「司修挿絵展-小川国夫『悲しみの港』」。
   同年、第36回安井賞審査員。
‘07年  『ブロンズの地中海』で毎日芸術賞。
‘08年   「両洋の眼展」で河北倫明賞。
‘11年  群馬県立近代美術館で「司修のえものがたり-絵本原画の世界」開催。
   『本の魔法』で第38回大佛次郎賞。
‘14年  3月『絵本銀河鉄道の夜』(偕成社)、
  6月『幽霊さん』(ぷねうま舎)刊。
‘15年   12月 『Ōe-60年代の青春』(白水社) 刊。
‘16年  第26回イーハトーブ賞受賞(花巻市)
‘20年   7月 『空白の絵本-語り部の少年たち-』(鳥影社) 刊。
    
『戦争と美術』『語る絵』『絵本の魔法』『孫文の机』『戦争と美術と人間』
等の 評論や小説、 『まちんと』『河原にできた中世の町』『雨ニモマケズ』
他絵本、 『風船乗りの夢』『壊す人からの指令』他の画文集等、著書多数。